《大学入試センター試験が31年の歴史に幕を下ろした。高校や大学から「改良を重ね、思考力を問う良問が増えた」と、一定の評価を受けた試験だった。
思考力のさらなる重視をかかげて「共通テスト」に切り替わるが、英語民間試験と記述式問題の導入をめぐる迷走から、なお行方が定まっていない。まずここをはっきりさせ、受験生の不安を解消する必要がある。あわせて中長期的な視点から、あるべき入試制度について検討を深めるべきではないか》(1月22日付朝日新聞社説)
センターテストをやめる理由もはっきりしないし、中身の分からぬ「共通テスト」に切り替える必然もあるはずがない。よくこんな教育破壊が公然と行われるものだ。センター試験に問題があるから変えるのではない。ただ「グローバリズムの波」とやらに押され入試を変革するなどというのは軽率にもほどがある。さらにその軽率を止めるものがいないというのもまた悲劇である。
《難問奇問を排した良問が多く、高校で学ぶ知識の定着を測るテストとして、一定の役割を果たしてきた。2006年度には英語のリスニングが導入された。高校の現場にリスニング指導を浸透させる契機になったのは間違いない。
一方で、センター試験の肥大化に伴う弊害も目立ってきた。受験生は約55万人に達し、学力の幅は広がった。一斉試験の問題は全ての受験生に目配りした結果、難関大を志望する受験生には易しすぎるとの批判がついて回った。
与えられた選択肢から正解を選ぶマークシート式では、深い思考力や表現力、英語の「話す力」や「書く力」は十分に測れない、といった指摘も強まった》(1月18日付読売新聞社説)
センター試験ですべてを計ることが出来ないのは言うまでもない。にもかかわらず、<英語の「話す力」や「書く力」は十分に測れない>などと言うのは「難癖」でしかない。
否、そもそも共通の大学入試で<英語の「話す力」や「書く力」>を計る必要がどうしてあるのかさっぱり分からない。現在もそうだし、これから見通せる範囲の未来において、平均的日本人に英語を話す力が必要であるとは到底思われない。
《文部科学省の審議会などでの議論をふり返ると、当初指摘された二つの問題が積み残されていることに気づく。
一つは試験の肥大化だ。センター試験は私大に門戸を広げ、各大学が科目を自由に選べる方式を採った。参加数は6倍近い858校に膨らみ、多様な要望に応えるため、科目数も18から30に増えた。06年からは英語のリスニングも加わった》(同、朝日社説)
ただ<肥大化>が問題なのであれば、門戸を狭めればよいだけである。
《もう一つは、基礎学力のない学生の増加だ》(同)
これは日本の教育が「詰め込み教育」をやめ、米国の後追いをした1つの結果である。
勿論、「詰め込み教育」に何の問題もなかったと言う気はないが、「詰め込み=悪」という考え方は短絡に過ぎたということではなかったか。
「知識」ではなく「思考力」が大事とばかりに、「知識」の大切さを忘れ、夢を追いかけたことの無残な結果が基礎学力を欠いた大学生の増加という現象を生み出したということではなかったか。【了】