保守論客の独り言

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山口県光市の「おっぱい都市宣言」について

山口県光市の「おっぱい都市宣言」がSNS上で議論を巻き起こしているらしい。 

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《「おっぱい都市宣言」は1995年に市議会で決議され、2005年に改めて決議された》(東スポ Web 2/24(水) 16:50 配信)

とのことであるから、今更(いまさら)のことなのだが、こんな宣言が罷(まか)り通るのも日本人が幼稚化してしまった証(あかし)なのだろうと思わずにはおれない。

 ヨハン・ホイジンガは、次のように書いている。

《私は数年前に、今日の社会生活の危険な幾つかの現象を、一括して小児病という名で呼ぶのがよい、と考えたことがある。その時私は、現代人が、それも特に何らかの組織の中に登場する集団の一員としての現代人が、思春期、あるいは少年期の生き方の型に従って行動するように見える一連の動きを眼に留めていたのである。それらの大部分は、現代の精神的コミュニケーションの技術によって惹き起こされたり、または押し進められたりした習慣である》(ホイジンガホモルーデンス』(中央公論社)、pp. 339-340)

ツイッター上では「普通にキモくていやだわ」「言葉のチョイスは不適切だと思う」「時代にそぐわない」という批判の声が殺到している。

 その一方で「地域の子育てはいいこと」「25年も前に決議されたもの引っ張り出してきて、文句つけることを探してるの?」「ネーミングが令和に適さなくなっただけで取り組み自体は支持したい」という賛同の声も出ている》(東スポ、同)

 果たして、<おっぱい>つまり「母乳哺育」推進が光市の最優先政治課題ということなのだろうか。否、そもそもどうして「母乳」か「人工乳」かの選択が政治課題となり得るのだろうか。

 仮に「母乳」の方が「人工乳」よりも好ましいということはあったとしても、どうしてそれを「おっぱい」と称して「都市宣言」までせねばならないのだろうか。

《小児病と名づけることによって最もよく把振することのできるものには、ユーモアの感覚が欠如していること、反感を秘めた言葉に対して、いや時には愛情をこめた言葉に対しても、誇張的な反応の仕方をすること、物事にたちまち同意してしまうこと、<他人>に悪意ある意図や動機があったのだろうと邪推して、それを押しつけてしまうこと、<他人>の思想に寛容でないこと、褒めたり、非難したりする時、途方もなく誇大化すること、自己愛や集団意識に媚びるイリュージョンにとり憑かれやすいこと、などがある。これら小児病的特徴の多くは過去の各時代の中にも夥(おびただ)しく見出されるものではあるが、何といっても、今日の公共生活の中に拡まっているように、それが膨れあがってマス化したり、残酷さと結びついたりしたことはなかった》(同、p. 340)

 <自己愛>に溺れ、自らの振る舞いが児戯(じぎ)に等しいものであったとしても、それに気が付かない大人たちが社会を闊歩(かっぽ)する。「大衆」が社会を占拠する時代。それが現代というもののようである。