保守論客の独り言

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行政改革会議最終報告を読む(1) ~神をも恐れぬ改革~

旧聞に属する話で恐縮だが、「行政改革会議」最終報告(1997(平成9)年12月3日付)に次のような文言が出て来る。

《われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない》(はじめに)

 気になる部分が2つある。1つは<統治客体意識>なる特殊用語であり、もう1つは<国柄>の転換である。前者は後回しにして、後者から見ていこう。

《国柄というのは人々の共有する慣習への同調の態度をさし、個性というのはその慣習から逸脱しょうとする態度をさす。そして両者を平衡させうるのは、慣習の本質ともいうべき「伝統(歴史の英知)」である。より正確にいえば、伝統とは何かと探索する姿勢そのものである》(西部邁『虚無の構造』(飛鳥新社)、p. 177)

 <国柄>とは、国の歴史・伝統に連なる自生的な「国の有り様(よう)」である。よって、これを人工的に変更しようなどと考えるのは、「バベルの塔」を彷彿(ほうふつ)させる神をも恐れぬ所業だと思われる。

《われわれ自身の理性と知能からつくり出されるものは、正しいものも、誤ったものも、すべて不確実と論議を免れない。神が昔、バベルの塔の混乱をひき起こしたのも、人間の傲慢を罰し、人間の悲惨と無能を思い知らせるためにほかならない。神の助けなしにわれわれが企てるすべてのもの、神の恩寵(おんちょう)の光なしにわれわれが見るすべてのものは空虚と狂気でしかない。われわれは運命から与えられる斉一(せいいつ)不変な真理の本質をさえ、われわれの無力のために腐敗させ堕落させる》(モンテーニュ『エセ―』(岩波文庫)原二郎訳:第2巻 第12章 レーモン・スボンの弁護、p. 209)

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦(れんが)を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰(しっくい)の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。

主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。

主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。—「創世記」11章1-9節 ​【続】​