保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

孔子廟判決と政教分離について(4) ~求められるのは「政治と宗教の平衡」~

憲法に書かれているわけでもない<政教分離>という言葉が独り歩きしてしまっている、そんな印象が強い。

《法理の内容までが正確に紹介されないままにわが国にその原則(つまりスロウガン)だけが導入されたため、戦後のわが国の憲政において、この政教分離の問題は最も深刻な争点のひとつになってしまった。

 そして、この点について、一部の人々は、神道を中心にこの国の「まつりごと」(政、つまり祭り事)が行われてきたという国柄が現憲法の制定によって有権的に否定された、という事実を理解できず、例えば「政教一致は、成文憲法を超えたわが国の不動の慣行として、慣習憲法である」などという暴論を主張して、開き直っている。

そして、それに反発する人々は人々で、アメリカの経験に照らしても政教「完全」分離などはもとより不可能であるにもかかわらず、敢えて、政教「分離」という言葉の形式的な意味をとらえて完全分離(つまり、いささかの政教接触も許さない原則なのだということ)を主張し、これまた「ないものねだり」になってしまっている》(小林節憲法守って国滅ぶ』(ワニの本)、pp. 159-160)

 政治と宗教が付かず離れずの関係を保つこと、つまり、政治と宗教の平衡こそが「政教分離」本来の意味だと解すべきだろう。政治が宗教を利用して国民を洗脳したり、宗教が政治に入り込んで権力を縦(ほしいまま)にするようなことは避けなければならないということである。

《問題になったのは、市が管理する都市公園内に8年前に開設された「久米至聖(くめしせい)廟」だ。市は観光資源などとしての意義を認め、年間約570万円の敷地使用料を免除してきた。

 難しいのは、国家と宗教との関わり合いには様々な形態があり、どの程度であれば「信教の自由の確保」という本来の目的に照らして許されるのか、簡単には線を引けないことだ》(2月26日付朝日新聞社説)

 簡単に線は引けない。が、けじめをつけるという意味でも政治の側が宗教の側に金銭的援助を行うのは避けるべきである。

《判決は、過去の判例を踏まえ、施設の性格、使用料が免除された経緯、恩恵の程度、一般人の評価などを考慮して、総合的に判断すべきだとする考え方の枠組みを示した。

 そのうえで、施設の外観、行われている儀式の内容、歴史的な経緯、免除額などを一つひとつ検討し、「一般人の目から見て、市が特定の宗教を援助していると評価されてもやむを得ない」と結論づけた》(同)

《公の機関は判決の趣旨を理解し、いま正すべき点がないかを点検するとともに、今後仕事に取り組む際も常に念頭に置く必要がある。

 宗教由来の施設や行事が地域に溶け込み、生活の一部になっている例は多々ある。司法も一切の関与を否定しているわけではない。だが信教の自由は人の内面に深く関わる問題であり、多数者の価値観を押しつけると大きく道を誤ることになる》(同)

 ここまでは至極真っ当である。【続】