保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

ALS嘱託殺人について(2) ~議論の先送りは許されない~

《懸念されるのが、難病患者の死を安易に容認する考え方が広がることだ。ALS患者であるれいわ新選組の舩後(ふなご)靖彦参院議員は「『死ぬ権利』よりも『生きる権利』を守る社会にしていくことが何よりも大切だ」とのコメントを公表した》(7月26日付神戸新聞社説)

 ALS患者である舩後氏であるからこそ<死ぬ権利>の意味が分かるのだと思うのであるが違うようである。<死ぬ権利>とは<死ぬ>という行為の選択肢を<権利>として持つということである。権利を持つということと権利を行使することとは別だということを混同すべきではない。

 人間の尊厳を重んじるのであれば、人間がこの「究極的権利」を有することは欠かせない。<死ぬ権利>が奪われているために死のうにも死ねず、たとえ人間としての尊厳が踏みにじられようとも艱難辛苦(かんなんしんく)を甘受せよというのでは酷薄に過ぎやしないか。

《安易な議論は慎むべきだが、先送りしたままでいいのか。高齢化社会の進展や医療の発展に伴い、「本人や家族が納得できる最期を迎えたい」という自己決定権への意識が高まっている。欧米では安楽死を合法化する動きが広まっている》(7月26日付南日本新聞社説)

 <安楽死>を認めることには慎重の上にも慎重を重ねるべきである。そのことに異論はない。が、医療の進歩と共に、かつてのような「自然死」を迎えることが難しくなった今、神に代わって、どのような条件のもとに生と死を選択するのかについて議論を積み重ねていくこともまた必要なのではないか。

《患者の命を守り、生きる道筋を探ろうとするのが医師の本分だ。自殺願望を抱く重い難病患者と向き合ったなら、まずはどう支えるかを考えるべきである。

 容疑が事実とすれば、患者の求めが発端としても、医師としてあまりにも命を軽んじる独善的な行為と言わざるを得ない》(7月25日付信濃毎日新聞社説)

 これこそ信毎社説子の独善である。生に絶望し死を望む患者に、様々なパイプを取り付け、人工心肺を用い人為的に生かし続けるのかどうか、その判断はもはや医師の裁量範囲を越えている。

 成程、患者に向き合うのが医師の本分なのだとしても、患者の意思を無視し、無理矢理生かし続けることが本当の意味で患者の為なのかどうかまでを判断するのは医師の手に余ると言うべきではないか。

《病気や障がいを理由にした安楽死を安易に肯定することは、「人為的に失わせていい命」の存在を、さらには「津久井やまゆり園」事件で19人を殺害した植松聖死刑囚のような「障がい者は殺してもいい」という発想を生み出しかねない》(7月25日付沖縄タイムス社説)

 ただの<障碍者>つながりで<安楽死>とは無関係な事件を連動させて否定的な心象を抱かせ、<安楽死>の議論自体を封じ込めようとするのもまた生命至上主義者の独善であろう。本人が死を望む<安楽死>と、本人の意思を無視した「津久井やまゆり園」殺害事件を同等に扱うのは思考が粗雑に過ぎる。【了】

(追記1)本ブログを作成するにあたって情報を収集したのが7月26日で、この時点で大手紙社説はこの問題を取り上げていなかった。問題意識が低いのか、どう書いてよいのか様子見をしたのか分からない。朝日、毎日、読売、産經、東京各紙社説がこの問題を取り上げたのは28日になってからのことである。

(追記2)後発組で目に留まったのは以下の3点である。

《患者の生命・健康に深く関わる医師には、高い倫理と人権感覚が求められる》(朝日社説)

《患者がより良く生きることを支えるのが医師本来の務めではないか。安易に死期を早めただけなら、医療を逸脱する行為であり、許されない》(読売社説)

《高齢者や難病患者の命を軽視する持論は、相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件を彷彿(ほうふつ)させる》(産經主張)