保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

ALS嘱託殺人について(1) ~「生命至上主義」と「安楽死」~

《難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者から依頼を受け、薬剤を投与し殺害した嘱託殺人容疑で、京都府警は、いずれも医師で仙台市の男(42)と東京都の男(43)を逮捕、送検した》(7月25日付沖縄タイムス社説)

 現行法上は、<安楽死>に手を貸せば殺人罪に問われる可能性が極めて高い。

《そもそも、薬物投与などで患者を積極的に死に導く安楽死は、日本の法律では認められていない。1991年の「東海大安楽死事件」では医師が患者を死なせて殺人罪で有罪になった。

 横浜地裁の判決は、医師による安楽死が許容される要件として(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛緩和の方法を尽くし、他に手段がない(4)本人の意思表示がある-の4項目を示した。

 だが、その後も4項目を満たしたとして公的に安楽死が認められたケースはない》(7月26日付南日本新聞社説)

 だから今回も嘱託殺人の容疑で逮捕されてしまったわけである。が、それでいいのだろうか。

 ここには「生命至上主義」という考えがある。したがって、「自由」や「権利」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する世の中にあってさえ、「生命」だけは「泣く子も黙る」存在なのである。

 ゆえに病気で体が動かなくなり死にたいと思っても「死ぬ自由」もなければ「死ぬ権利」もない。仮令(たとい)患者が「肉体的及び精神的苦痛」に苛(さいな)まれようとも一顧だにしない。「生命至上主義」は謂わば絶対なのである。

《ALSは進行性の難病で、寝たきりになり食事や呼吸も自力ではできなくなる。一方で感覚や思考は従来のままだ。動かない体に閉じ込められたような苦しさはいかばかりか、察するに余りある》(7月25日付高知新聞社説)

 にもかかわらず、ただ生かされ続ける。これは一種の「拷問」である。にもかかわらず、高知社説子は、

《患者には死を望むより他に道はなかったのか。生きる希望を見いだせるように支える手だてはなかったか》(同)

と叱責する。患者の判断は安易だったとでも言いたいのだろうか。

 生きることに絶望した人間に、絶望というものを知らぬ人間が、安易な言葉を投げ付ける。それ自体が人間の尊厳というものを軽んじ貶(おとし)めることになりはすまいか。本人の意思を考慮の埒外に置き、自己決定権を奪い、有無を言わさず生かされ続けること、それが博愛的、人道的ということなのだろうか。

《2人は患者の主治医ではなく、会員制交流サイト(SNS)を介して依頼を受けた。現金も受け取っていたとされるなど、医師による他の「安楽死」事件と比べても特異さは際立っている。

 難病に苦しむ患者の自己決定とはいえ、こうした経緯でそれがかなえられることには疑問を拭えない》(同)

 今回の事件の問題は、それはそれとして追及すればよい。<安楽死>の問題とは分けて考えるべきである。【続】