保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

芸能人の政治的発言について(4) ~対案なき無責任な反対~

《絶対に認められないことがある一方で、例えば、夫婦別姓制度などは、是か非か以外に選択制という第三の道がある。「妥協」というと、「敵-友」といった単純な二項対立的政治観に立てば、否定的な意味となろうが、本来は読んで字の如(ごと)く、多様な人間が共存するための必然的調整であり、その妥協点を模索する過程こそが、政治にとっては重要である》(平野敬一郎【政治について語ること】:西日本新聞2020/5/25 11:00)

 平野氏は政治と宗教を混同している。政治の世界に絶対などというものはない。絶対があるとすればそれは宗教である。

 確かに、政治において<妥協>は重要である。が、この場合重要なのは、平野氏の言う<過程>ではなくむしろ「結果」の方であろう。

《本来は妥協すべきでないが、一時的な戦術から妥協しなければならないような場合の妥協は、相対的意味の妥協である。一歩後退、二歩前進は相対的妥協のケースだ。だが、所詮妥協以外に解決の道が本質的にないような場合の妥協がある。これはいわば絶対的意味の妥協である。政治的な未熟者には、相対的意味の妥協は理解できるが、絶対的意味の妥協が存在することの理解はむつかしい》(丸山眞男『自己内対話』(みすず書房)、p. 79)

《私たちは、民主主義国家の国民である。この国をどうしたいか、どうすべきか、どうできるかは、私たち一人一人が考え、政治参加を通じて実現してゆくしかない》(平野、同)

 もっともらしく聞こえるかもしれないが、私はこれは間違っていると思う。政治とは複雑怪奇なものであり、誰もがこれに関われるものではないし、そうすべきでもない。そんなことをしていては日常生活が立ち行かなくなってしまうだろうし、経済も回らない。

 だから自分たちの代表を選んで、情報と時間と権限を集中させ、議論を委任する形の間接民主制が敷かれているのである。

《政府が横暴であるならば、ただ反対で十分であり、現状で問題がないならば対案など必要ない。

 政府の能力を見限れば、不支持を表明することである。追い詰められれば、与党も野党も、後任を立てるだろう。しかし寧(むし)ろ、市民の側から相応(ふさわ)しい人間を見定め、代表として国政の場へと送り出さなければならない》(同)

 対案もないのにただ反対だと騒ぎ立てるのは只(ただ)の「がや」である。平野氏はどういう理屈から<対案など必要ない>と言っているのか。

 無論、自らに降りかかった「炎」なら声を上げてもよい。が、今回の検察庁法案のような、政府が検察へ恣意的に介入する危険の有るや無しやといった話に気まぐれに首を突っ込んで、何ら対案もなくただ声高に反対を言い募るのは議論を混乱させるだけである。

 対案もなく反対しか言えないような側から、一体どんな代表が出て来るというのであろうか。【了】