保守論客の独り言

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風化する太平洋戦争(2) ~「自虐史観」の辻褄合わせ~

《正式決定の段階では落ちたが「南方施策促進に関する件」の大本営案(611日)には「対英米戦を賭するも辞せず」の部分があり、72日の御前会議で採択された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」(大本営決定は624日)では「対英米戦を辞せず」と強化されていた。

 もっとも、この表現には微妙なニュアンスがあって、御前会議で永野軍令部総長が「英米等に対する武力行使の時機及び方法につきましては当時の情勢に鑑み帝国の自主的見地に於て之を決定するを必要」と説明し同趣旨の規定が第五項に入っているように、徹底を欠くものがあり、さらにその真意を掘下げれば、陸軍統帥部の起案者が「国論の指導上…・修辞を使ったのだ」とか、参謀総長や参謀次長も、日中戦争処理を第一とし「対米戦はおろか対英戦も辞せざる決意はできていない」と言明するありさまだったのである。

要するに、最高責任を負う陸海軍上層部全体としては、「対英米戦を辞せず」は、多分に虚勢か修辞上の決意にすぎなかった。ところが、主として統帥部の中堅将校層の間では、従来の強硬論とはやや性格を異にした対米開戦論が、徐々に勢力を固めつつあった》(『太平洋戦争への道 6南方進出』(朝日新聞社)、p. 269

 やはり半藤一利氏が72日の御前会議の南部仏印進駐が對米英戦争を決定づけたと言うのは言い過ぎであろう。ではどうしてこのような強弁を行ったのかと言えば、おそらくそう言わなければ「自虐史観」が成立しないからではないか。

 大東亜・太平洋戦争は、よくよく調べてみれば、大陸侵略を目論んだ日本だけが悪かったという「自虐史観」とは正反対の事実が浮かび上がってくる。南部仏印進駐は、亜細亜侵略ではなくABCD包囲網をかいくぐって日本が生き残るための苦肉の策であった。

 1941年4月、近衛文麿内閣(当時)は戦争回避のため日米交渉を始めるが、これが不調に終わり、日米開戦を強く主張していた東条英機に白羽の矢が立つ。が、昭和天皇が開戦回避を望んでいたため及び腰となり、戦争回避に尽力する一方で、戦争準備も行なうこととなる。最終的に、米国が日本が到底のむことが出来ない最後通牒ハル・ノートを突き付けたことで、開戦不可避となったのであった。

 当時、ルーズベルト政権には300人のコミンテルンのスパイがいた。 ハル・ノートを書いたハリー・デクスター・ホワイトもその1人であった。【続】