保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

閣僚の靖国神社参拝について(2) ~「政教分離」という言葉は憲法にない~

《首相や閣僚による靖国参拝は、憲法が定める政教分離の原則からみても疑義がある。衛藤、高市両氏とも「私人として」というが、閣僚という立場で公私は分かちがたい》(10月19日付朝日新聞社説)

 そもそも日本国憲法には「政教分離」という言葉は出て来ない。この「ない言葉」が独り歩きしてしまっている。

 これは元々西洋における「教会と国家の分離」(Separation of Church and State)であり、政治と宗教を分離するということではない。当たり前のことであるが、政治から「宗教的なるもの」を一切排除することなど不可能である。

 日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条が「政教分離」に相当する部分だとされる。

日本国憲法 第20条

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法 第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

  これらの条文から「国家と宗教の厳格な分離」、つまり、「政教分離」を説く憲法解釈が後を絶たないが、これはやはり勝手な解釈であろうと思われる。

 例えば、閣僚の靖国参拝はこれらのどの部分に抵触するというのであろうか。最も近いのが20条3項の<宗教活動>ということなのだろうが、「慰霊」がそれに該当するとは思えない。憲法に書かれていない「政教分離」を前提とすれば閣僚が宗教施設を訪れることに疑義が生まれるかもしれないが、憲法に書かれている内容に照らせば、違憲と言うには及ばないに違いない。

アメリカの判例では、この種の問題について、目的・効果基準と呼ばれる基準が用いられてきた。この基準は、

①問題となった国家行為が、世俗的目的(secular purpose)をもつものかどうか、

②その行為の主要な効果(primary effect)が、宗教を振興しまたは抑圧するものかどうか、

③その行為が、宗教との過度のかかわり合い(excessive entanglement)を促すものかどうか、

という3要件を個別に検討することによって、政教分離原則違反の有無を判断し、1つの要件でもクリアーできなければ右行為を違憲とするものである。

わが国でも、それを変容した形ながら、ある公権力の行為が憲法20条3項で禁止される「宗教的活動」に当たるか否かを判定するに際し、津地鎮祭最高裁判決などの判例において用いられている》(芦部信喜憲法 第4版』(岩波書店高橋和之補訂、pp. 152-153)

つまり、この「目的・効果基準」によって違憲か否かが判断されているということである。【続】