保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

野次と表現の自由

《埼玉県知事選の投開票前日、24日夜の出来事である。JR大宮駅近くで自民、公明両党推薦候補の応援演説をしていた柴山氏に対し、「柴山辞めろ」とか大学入試共通テストの「民間試験撤廃」などとやじを飛ばした男性が、埼玉県警の警察官数人に囲まれ、遠ざけられた。

 柴山氏は27日、閣議後会見で「表現の自由は最大限保障されなければならないが、集まった人たちは候補者や応援弁士の発言を聞きたいと思って来ている。大声を出したりすることは、権利として保障されているとは言えないのではないか」と県警の行為を擁護した》(8月30日付東京新聞社説)

 選挙期間中の応援演説において、演説への野次を法律で禁じるというような息苦しい社会にしたくはないが、一方で、演説を不規則発言で妨害したとしてもそれは表現の自由の範囲内だと強弁するのもまた下品なことだと思われる。つまり、野次は法の次元の問題というよりも、道徳の次元の問題ではないかということである。

 が、戦後日本は道徳というものを忌避し続けてきた嫌いがあって、どの程度の野次なら許されるのか、許されるべきなのかについての共通見解があまりにも弱すぎる。

 野次というものは、対象(今回の場合は選挙応援演説)そのものに対し刺激を与えるものでなければならない。が、「柴山辞めろ」などというのはただの暴言でしかない。「民間試験撤廃」というのもたとえ正論であったとしても時処位を弁(わきま)えねば暴論でしかない。

《「表現の自由」を曲げて解釈しているのではないか。

 もちろん政治活動の自由は最大限尊重されるべきで、公職選挙法は選挙演説の妨害を禁じている。

 しかし、駅前という開かれた場での選挙活動である。そこに集まった人たちには政権の支持者もそうでない人たちもいて当然だ。そうした場でも、政策への賛否を言い表すことは許されないのか》(同)

 「柴山辞めろ」や「民間試験撤廃」といったことは埼玉県政とは無関係であり、<政策への賛否を言い表すこと>ではない。

《埼玉の事例は、やじで演説が続行できなくなるような悪質な行為に当たるとはとても思えない。もし選挙妨害に当たらない段階で、公権力がやじを強制排除したのなら、明らかに行き過ぎだ》(同)

 今回、公権力が排除したのは演説に関する<野次>ではなく演説に無関係な<暴言>である。これはやはり<選挙妨害>であり、強制排除されても仕方のないものだと思われる。

《政権に異を唱える発言が、トラブル防止を名目に警察に排除される。公権力を行使する立場にある政治家は、表現の自由を尊重すると言うものの、実際に侵されても放置する。こんなことが安倍「長期」政権で続く。

 その背景に、批判や異論に耳を傾けようとしない不寛容な政権の体質があるとしたら、構造的問題であり、根が深い》(同)

 埼玉県知事選応援演説で、県政と無関係な<政権に異を唱える発言>がなされ、演説が妨害され、これをマスコミが擁護容認する。こんなことが反安倍「長期」政権批判側で続く。その背景に、批判や異論に耳を傾けようとしない不寛容な反権力の体質があるとしたら、構造的問題であり、根が深い。