保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

川崎児童殺傷事件について(1) ~「犯行の芽を摘む」~

川崎市多摩区の路上で28日朝、私立小学校のスクールバスを待つ児童らが次々と男に襲われ、19人が死傷した。男は自らの首を刺して自殺した》(5月29日付産經新聞主張)

 おそらくこのような事件はなくならないのだろう。が、なくならないからと言ってただ手を拱(こまね)いているだけでは済まされない。

《被疑者死亡のまま書類送検、不起訴となり刑事裁判は開かれない。だが、事件をこれで終わらせてはならない》(同)

 私がいつも疑問に思っているのは、あまりにも犯人の「人権」が重んじられることである。今回の事件の真相はいまだ闇の中であるが、たとえ何らかの兆候があったにしても犯行に及ぶまで犯人は固く「人権」に守られる。前科があろうと守られる。が、そのようなことでは市民は守られない。

《再発防止のために重要なのは犯行の芽を摘むことだ。事件の教訓や反省を得るためには、男の治療歴などの有無を含む人物像をつまびらかにしなくてはならない。

 平成13年には大阪教育大学付属池田小学校に男が押し入り、児童8人を殺害した。28年には相模原市の障害者施設で入所者19人が刺殺された。犯人はいずれも措置入院の退院後に犯行に及んだ。

 相模原の事件では「他害の恐れがある」と診断されながらの退院だった。医療行為の枠内で運用される措置入院は再発防止に資することができない。刑事司法が関与する「治療処分」導入の声は池田小の事件後にもあった。

 犯罪予防的な「治療処分」は英独などで制度化されている。だが導入への検討は「人権の侵害」や「治安維持の道具となる」などの反発を受けて頓挫したまま、相模原の事件は起きた》(同)

 <犯行の芽を摘む>ということを主張しているのは私の見たところ産經新聞だけのように思われる。他は「人権思想」に縛られて身動きがとれない。加害者の人権が守られて被害者の人権が守られないことがおかしいことに気が付かないのが「人権思想」というものである。

 勿論<犯行の芽を摘む>ということで何をやっても良いわけではない。非常に抑制的であることが求められるのは言うまでもない。が、「人権」を絶対視して<犯行の芽を摘む>ということから我々は逃げるべきではない。

《池田小事件の被告に死刑を言い渡した大阪地裁の裁判長は判決朗読後、「子供たちの被害が不可避であったはずはない、との思いを禁じ得なかった」と述べ再発防止への真剣な取り組みを求めた。

 今回の事件も、本当に不可避だったのか。再発防止に必要な法改正は何か。これを知るためにも事件の全容解明が欠かせない》(同)【続】