保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

幼稚な憲法議論を駁(ばく)す(3) ~護憲派の欺瞞~

《国の最高法規である憲法に求められるのは安定性である。

 制定から時間を経て実態に合わない点が生じた場合でも、関連法の整備や憲法解釈の運用で対応することもできよう。

 改憲が必要となった場合でも、憲法の普遍的価値である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の3原則は維持されるべきだ》(5月3日付北海道新聞社説)

 自衛隊の問題は小手先の整備で何とかなるような話ではない。護憲派はこの点を曖昧にするから駄目なのである。

非武装中立と言いながら、自衛隊と安保の現実は事実上、容認している。60年安保以降、自衛隊と安保を廃棄せよという運動は、国民的規模でなされていないし、それを推進しようとする動きさえ見えない。何か運動があるとしたら、専守防衛の枠を越えて、海外派兵だとかがあったときに、ちょっとだけ反対する。それで、9条を守れと言い続けるだけ。

 9条を守れと言うなら、彼らの解釈は非武装中立なのだから、自衛隊と安保を廃棄せよということも言わなければならない。でも、それらは専守防衛の範囲内ならOKと事実上容認している。

 いや、容認しているだけではなく、ちゃっかりその便益を享受している。

 要するに彼らは、憲法9条を、政治的主張のための戦略カードとして使っている。「違憲だ、違憲だ」と言い続ければ、現状維持ができるだろう、と。

(中略)

自衛隊と安保が提供してくれる防衛利益を享受しながら、その正当性を認知しない。認知しないから、その利益の享受を正当化する責任も果たさない。

 利益を享受していながら、認知せずその正当性を認めない。私に言わせれば、これは右とか左とかに関係なく、許されない欺瞞です》(井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)、pp. 49-50)

 井上教授は決して右寄りの論者ではない。優れて「リベラル」な学者である。「リベラル」という言葉は、日本ではしばしば「反日左翼」の言い換えとして用いられているが、護憲派の欺瞞を叩けない「リベラル」など真のリベラルと呼ぶことは出来ない。

非武装中立というのは、絶対平和主義です。殺されでも殺し返さない、そういう峻厳(しゅんげん)な自己犠牲を背負う覚悟が、それを唱える原理主義護憲派にあるのかといえば、ありません。運動家と称している人たちにも、そんな覚悟はないでしょう。

 何度でも言うけど、私はこれは、倫理的にも、政治的にも許されない欺瞞だと思います》(同、pp. 51-52)【続】