保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

幼稚な憲法議論を駁(ばく)す(2) ~憲法と自衛隊存在の齟齬(そご)~

憲法というと、戦争放棄を定めた9条が議題になることが多く、「集団的自衛権とは何か」など日常生活とは縁のない小難しい論争ばかりという印象がある。

先日、同性婚を法的に認めるよう求める裁判が提訴された。憲法24条は「婚姻は両性の合意のみ」で成立すると定めており、同性婚違憲というのが従来の憲法解釈である。だが、戦後すぐの時期に同性婚は想定されていなかっただけで、否定はされていないと考える憲法学者もいる。

この「両性」という表現をどう読むのか。憲法学者でなくとも、口を挟める話題だ。保守だ、リベラルだ、と角を突き合わせず、気楽に世間話のように話すのも、立派な憲法論議といえよう》(5月3日付日本経済新聞社説)

 日経社説子の言う<小難しい論争>こそ重要なのであって、<同性婚>の話は枝葉の枝葉である。勿論、このような枝葉の話があってもよい。が、9条の問題を<小難しい>などといって忌避したり後回しにしたりするのはやはりおかしい。

自衛隊明記の新設条項は、9条2項の「戦力不保持」の原則と明らかに矛盾する》(5月3日付北海道新聞社説)

 確かに、自衛隊は9条2項「戦力不保持」と矛盾する。が、それは自衛隊憲法に明記するから矛盾するのではなくて、もともと自衛隊自体が憲法と矛盾する存在なのである。

 自衛隊憲法に明記するか、自衛隊を解体するかの二者択一ということになる。立憲主義の立場からすれば、現存する、そして解体することの能(あた)わぬ自衛隊憲法に明記するのは当然のことである。が、9条2項を残したままでは「矛盾」が明文化されるだけのことでしかない。

 「矛盾」を解消するためには、9条2項を削除しなければならない。それは「平和憲法」を放棄することに等しい。が、自国を「平和」に縛り付ければ、戦争に巻き込まれないと考えている「平和」な人たちにはこれは耐えられないことに違いない。「平和憲法」を捨てて普通の国になるのか、それとも「平和憲法」という欺瞞(ぎまん)を墨守(ぼくしゅ)し続けるのか。

《政府が武力行使の要件に掲げる「必要最小限度」という制約がなく、専守防衛を逸脱する疑いが濃厚だ》(同)

 冷戦時代は、米国の核の傘の下におればよかった、否、いるしかなかった。だから「専守防衛」などということでお茶を濁して済まされてきたのであったが、これからは「防衛」のためには「敵基地攻撃能力」を持つといったことも含めて、「専守」の壁を打ち破らねばならなくなる時がいつか来るに違いない。

《「自衛隊」が他の省庁より上位の組織とみなされ、文民統制が緩む懸念もぬぐえない》(同)

 しばしば持ち出される<文民統制>も整理不十分な概念で、命のかかった軍人よりも安楽に戦争に踏み出せる文民が統制する方が平和が保たれるなどといった神話も再検討すべきだろうと思われる。【続】