保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

塚田副大臣の忖度発言について(2) ~聞く耳を持たぬ大衆~

《今日の状況の中で、社会的な生における知的凡庸さの支配ほど、過去のいかなる事件とも同一視することのできない新事態はないのではなかろうか。少なくともヨーロッパの歴史においては、庶民が自分が物事に関する「思想」をもっていると信じ込んだことは一度もなかった。彼らは、信条、しきたり、経験、格言、習慣的なものの考え方などはもっていたが、物事の現在の姿、あるいはかくあるべきという姿に対する ――たとえば政治や文学に対する――理論的見解を自分がもっていると想像したことはなかったのである。

彼らにも、政治家が計画することや実行することが善いか悪いかを判断し、賛成したり反対したりすることはできたが、彼らのそうした行動は、他の人々の創造的な行為を、肯定的あるいは否定的に反射するということに限られていた。彼らは、政治家の「思想」に対して自分の思想を対立させるということはけっしてなかったし、政治家の「思想」を、自分がもっていると信じている別の「思想」によって裁こうなどと願ったこともなかったのである。

芸術に関しても、また社会的な生の他の局面に関しても、彼らの態度は同じであった。自己の限界、つまり、自分には論理的に思考する資質がないという生得的な自覚が、彼らが前記のような態度に出るのをはばんでいたのである。その当然の結果として、大部分が理論的性格のものである社会的活動のいかなる分野においても、自分が決定を下すなどおよそ考えてもみなかったのである。

 ところが今日では、平均人は宇宙に生起するすべてのこと、そして、起こるべきすべてのことに関して、最も限定的な「思想」をもっている。それだからこそ、彼らは聴くべき耳を失ってしまった。自分の中に必要なもののすべてをもっているのに、他人の言葉に耳を傾ける必要がどこにあろう。彼らにとってはもはや傾聴すべき時は過ぎたのであり、今や判定し、裁定し、決定する時なのである。大衆人が、彼ら本来の視覚も聴覚ももたぬ姿で介入してきて、彼らの「意見」を強制しない問題は社会的な生(パブリック・ライフ)の分野にはもはや一つもなくなっているのである》(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)神吉敬三訳、pp. 99-101)

 塚田氏の一件は、「思想」というよりも「倫理」の問題である。有権者自らには課すことの出来ないような高い倫理を政治家には課すのが妥当か否か。果たして政治家が、地元の有権者が希望する利益誘導を土産話にするのは許されないことなのか。地方へ利益誘導しなければ、ますます都会と地域の格差は広がるばかりではないか。

 詰まるところ問題は手続きが「公正」かどうかということであろうが、塚田氏が一人で調査費を獲得したはずもないであろうから、このような話を真に受けて辞任まで迫るのはやはりやり過ぎだと言わざるを得ない。【続】