保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

和暦元号について(2) ~元号制約の逆説~

《芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く措かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを措くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう。事実の世界に一歩足を踏みこむことは限定の世界に一歩足を踏みこむことにほかならぬ。

法則が外部から与えられたものであり、偶然のものであるならば、法則から事物を解放することも自由であるかもしれないが、その事物に本来そなわる法則からその事物を解放することは自由とは言いかねる。お望みとあらば、虎を檻から解放するのは自由であろう。しかし虎をその縞から解放するのは自由ではない。ラクダをその癖の重荷から解放するのはよしたほうがよい。ひょっとするとラクダをラクダであることから解放することになりそうだ。

民衆をアジるのはいいとしても、三角形に向かってその三角の牢獄から脱走せよとアジるのはやめたほうがよい。三角の牢獄を脱け出たとたん、三角形の命も哀れ一巻の終りとなる》(GKチェスタトン「思想の自殺」:『GKチェスタトン著作集1 正統とは何か』(春秋社)福田恆存安西徹雄 訳、pp. 62-63

 我々は時と共に生きている。時を生きていると言っても良いかもしれない。時を活用しているとも言えるし、時に制約を受けているとも言えるだろう。

 出来事の順序を大きく捉えるには「西暦」で事足りるかもしれないが、より子細に出来事の意味合いや位置付けを考えようとすれば「時代区分」が必要である。この時代区分が「元号」ということになる。日本人は、元号と共にあることで民族共通の歴史を紡(つむ)ぎ、共同の時間を生きている。

 西部邁氏は、

天皇制の本質は「元号」にこそある》(『ナショナリズムの仁・義』(PHP)、p. 110

と言う。そして

《おのれの生死を意識にのぼらせざるをえないのが人間の本質だとすれば、その意識に時間軸を与えるという元号の役割は計り知れぬほどに大きい》(同)

というのは指摘の通りであろう。

天皇という国家象徴は、まぎれもなき人間であるがゆえに、時間の流れのなかで生の起点と死の終点を持つ。そのことにもとづく元号の制度は、日の丸や君が代といった「モノ」による国家象徴とは異なり、生死の意識から自由になれず、また共同で生きるほかない人間にとって、歴史の感覚と共同性の意識の最も基底的な次元を構成する。つまり、元号におのれらの時代意識を仮託することによって、国民は生と死にはさまれた有限の時間に共同の物語を与えようとする》(同、p. 111

 元号という区切られた時間に時を限定することによって自分たちの生はより味わい深いものになる。この逆説が分からぬ者が元号にけちを付けるのである。【続】