保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

児童虐待防止について(1) ~「児童虐待の根絶」という空理空論~

安倍晋三首相は、1月28日の施政方針演説で次のように述べた。

子供たちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です。

 あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません。何よりも子供たちの命を守ることを最優先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取り組みを警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります。

 <子供たちの命を守るのは、私たち大人全員の責任>、何と無内容な科白(せりふ)だろうか。当たり前のことをただなぞっているだけだから内容がないということもあるが、問題の発端となった東京都目黒区や千葉県野田市で起きた女児死亡事件は、大人が子供の命を守る責任を果たしていないというような話ではなく、親が子供を虐待することによって起こったものである。的外れの言葉をいくら並べても問題は解決しない。

 <児童虐待の根絶>という言葉も引っ掛かる。これは「核廃絶」と同様に、左寄り論者お得意の、現実を踏まえない「理想」に過ぎない。児童虐待をいかに減らすかを考えて手を打つのであれば分かるが、人間の本性に反して根絶を目指そうなどと本気で考えるとすれば、それは「狂気」にしかならないだろう。詰まるところジョージ・オーウェルが小説『1984』で描いた、市民のすべての行動が監視された統制社会とならざるを得ない。

《虐待をこれ以上放置することは許されないとして、児童福祉法児童虐待防止法の改正案が国会に提出された。

 大きな柱は親権者による「体罰の禁止」と児童相談所の強化である》(3月21日付産經新聞主張)

 「親の体罰」を禁止するとは博愛主義者には聞こえが良いであろうが、ではどうやって子供を躾(しつけ)ればよいのかという素朴な疑問が湧く。こう言えば、体罰がなくとも躾は出来ると反論する人が出てくるに違いない。が、それはおそらくよほど幸運に恵まれた特殊個別的な場合に限られるのであって、決して一般化することは出来ないと思われる。

 子供は言葉が未熟であり論理的に物事を捉えることが出来ない。したがって、言葉で教え諭(さと)すには自ずと限界がある。だから宥(なだ)めすかしながら、そして時として不本意ながらも「体罰」にも訴えて、試行錯誤と悔悟(かいご)を繰り返しながら「躾」を行うのだと思われる。

 「体罰」がないに越したことはない。そして中には、体罰なしの子育てが成功することもあるにはあるだろう。が、多くの親が子供に本気で向き合う中で、いくら言っても子供が言うことを聞かないという究極の場面において、「必要悪」としての体罰が認められることもなくはない、私はそう思うのである。【続】