保守論客の独り言

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兵庫明石市長選:暴言泉氏再選について

《部下への暴言問題で前市長が辞職したことに伴う出直し兵庫県明石市長選が17日投開票され、前職の無所属泉房穂氏(55)が、元職、新人の三つどもえを制し、3度目の当選を果たした。泉氏は、謝罪を続けることで暴言問題への批判をかわす一方、手厚い子育て政策による人口増など2期8年弱の実績が評価された》(3月17日付神戸新聞NEXT)

 「これで禊(みそぎ)は済んだ。これまでのことは水に流して、前向きに市政を運営していけばよい」ということになるのだろうか。

「綸言(りんげん)汗のごとし」(皇帝が一旦発した言葉は取り消したり訂正したりすることができない)

と言う。「火、つけて来い」などと一度口にしてしまった言葉はなかったことに出来ないということである。

 暴言には続きがあり、「市民の安全のためや」とか「私が土下座でもしますわ」などと言ってはいる。が、これらの言葉が暴言を相殺(そうさい)するわけではない。暴言は暴言でも犯罪を指示するような言葉を立場ある人間が発してしまってはすべてが「おじゃん」である。

 明石市民は、泉氏には実績があるのだから多少の暴言は大目に見ようと判断したということなのであろう。勿論、人それぞれ色々な考えがあるのだろうけれども、そう取るより仕方ない。が、やはり私は腑に落ちない。否、私が腑に落ちようが落ちまいがどうでもいいことなのであろうが、暴言が許されないとして引責辞任した泉氏をわざわざ市民が担ぎ出し再選させたことの意味を今一度考えておく必要もあるだろう。

 暴言の責任を取って辞職した。が、市民の嘆願もあって選挙に問うことにした。その選挙で信任を得た。

 が、果たして「選挙」はすべてを帳消しに出来る「魔法の杖」なのか。はたまた選挙民はすべてをチャラに出来る「神」なのか。市民が良いと言えば良いなどという考えは危険である。それはヒトラーを持ち上げたドイツ国民と変わらない。

《泉氏は選挙戦で「選挙結果にかかわらず、人として許されない」とおわび行脚を展開。一方で、6年連続の人口増など地域活性化の実績をアピールし、「子ども施策の充実で生まれた好循環を、ほかの分野にも広げる」と訴えた》(同)

 本当に<人として許されない>と本人が思っているのであれば、市長選に立候補するのはおかしくないか。

《泉氏が進めてきた子育て支援や社会的に弱い立場の人に配慮した施策への評価と期待の大きさが、暴言問題への批判を上回ったといえる。謝罪に徹した選挙戦術も奏功したようだ》(3月19日付神戸新聞社説)

 他の候補者が他の争点を生み出せず、実質的には泉氏の信任投票のような選挙にならざるを得なかったということなのであろう。そして泉氏が選ばれた。市民がそれで良ければ良しとするしかないのだけれども…