保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

米朝会談不調の影を落とす3・1文大統領演説(2) ~有難迷惑だった(?)善政~

《列強時代、朝鮮が清国の属国であったことは各国ともに承知していたことで、朝鮮外交をめぐる交渉は李朝朝廷ではなく清国を通して行われていた。朝鮮の国事や人事までも、清政府が決めていた》(黄文雄『韓国は日本人がつくった』(WAC)、p. 46)

 この状況を変えたのは日本である。日本は、日清戦争(1894-95年)に勝利し、李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を清国に承認させた。が、三国干渉(1895年)による日本の弱腰外交を見て、韓国は今度はロシアに寝返った。ロシアの南下を嫌った日本は、日露戦争(1904-05年)においてロシアに勝利し、1910年に韓国を併合した。

《1904年から1905年の日露戦争当時には、あらゆる意味において未開の国であり、絶え間のない混乱の温床であり、隣接国による競争の対象であり、その結果、中日、露日の戦争の第一の原因ともなった朝鮮は、日本の保護統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる。

見る見るうちに、広大な鉄道網や電信電話網が敷かれた。公共建築物や工場が建ち並び、日増しに増え続けている子供たちは学校に通っている。

 農業も盛んになっている。輸出は3年で3倍以上になった。財政は、輝かんばかりの状態にある。

 港は活気に満ちている。司法制度が改革され、裁判の手続きもヨーロッパの裁判所に決して引けを取らない。

 唖然とする世界の予想外に、満州の平原や旅順や対馬で発揮された日本の活力の魔法の杖がもたらす変革により、4、5年後には古い朝鮮の遺物は跡形も無くなっているだろう。

 文明とは平和主義の道における進歩のことであり、この観点に立てば、朝鮮の日本への併合は極東の繁栄と発展の新たな要素となるだろう》(1910年8月26日付露紙ジュルナル・ド・サン・ヘテルスプール)

 一方で、石橋湛山は、「3・1暴動」を擁護した。

《凡(およ)そ如何なる民族と雖(いえども)、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来殆(ほとん)どない。印度埃及(エジプト)の英国に対する反感は年と共に昂(たか)まり、愛蘭(アイルランド)の独立運動は今日に至て愈(いよい)よ強烈を加えて来たではないか。朝鮮人も一民族である。彼等は彼等の特殊なる言語をもって居る。多年彼等の独立の歴史をもって居る。衷心(ちゅうしん)から日本の属国たるを喜ぶ鮮人は恐らく一人もなかろう。故(ゆえ)に鮮人は結局其独立を回復する迄(まで)、我統治に対して反抗を継続するは勿論、而(し)かも鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、其反抗は愈よ強烈を加うるに相違ない。

之を個人の場合に就(つい)て考うれば、直ぐに分ることだ。恐らく何人と雖、自己意識のある以上、他人の保護管理の下に生活するのでは、其他の一切の要求が遺憾なく充たし得られても、決して満足はせぬ。何となれば、自己は自己に由(よっ)て支配せられぬ限り、真の意味に於て生活はないからである。

自己なき所には如何(いか)なる善美も意味を成さぬ。民族の生活も亦(また)同様である。故に鮮人は日本の統治の下に如何なる善政に浴しても、決して満足すべき筈はない。故に彼等は彼等の独立自治を得る迄は断じて反抗を止めるものではない。問題の根本は是に横わる》(「鮮人暴動に対する理解」大正8(1919)年5月15日号「社説」:『石橋湛山全集 第3巻』(東洋経済新報社)、pp. 78-79)

 善政に感謝する台湾と感謝しない朝鮮、その違いは民族性の違いなのかもしれないが、「有難迷惑」という言葉のあるように、良かれと思ってやったことが必ずしも相手に喜ばれ受け入れられるわけではないという観点が欠けていたことだけは確かではなかったか。【了】