保守論客の独り言

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沖縄辺野古県民投票について

辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票を巡り、県議会は「賛成」「反対」の選択肢に、「どちらでもない」を加えた3択とする条例改正案を賛成多数で可決した》(1月30日付沖縄タイムス

 沖縄県民でないお前に何が分かるのかと言われてしまうのであろうが、私にはこの県民投票をやる意味が分からない。県民投票をやって、反対派が多数を占めたら辺野古埋め立ては撤回されるというのならまだしも、そうではない。ただ沖縄県民の過半数が反対していることの表明にしかならない。

 それでも沖縄県民の過半数の意見は無視できないはずだ、否、無視すべきではないと言いたいのかもしれないが、この意見とは一体何かということである。これまたお叱りを受けるのであろうが、〇×△の意見表明に説得力があるはずがない。

 辺野古埋め立ての是非はそんな三択に押し込められるような簡単な話ではない。言い換えれば、本来もっと複雑である話を単純化して県民の判断を仰ぐことにどれほどの意味があるのかということである。

 〇×△は「感情」の表明でしかない。そこには〇×△を支える「論理」は不要である。「論理」が要らないから〇×△が表明できる。お叱りを承知で言えば、要はその程度のものでしかないということである。

 本来は、是か非かを判断するためには、歴史的経緯や政治的状況といったものを考慮勘案する必要がある。が、そういったことを総合的に判断するためには、でき得る限りの情報や意見を収集しなければならない。

 が、県民全員にそのようなことを求めることは出来ない。だから「間接民主制」を敷いているのである。県民そして同時に国民の代表を選んで物事を判断させるわけである。

 私は「県民投票」のような「直接民主制」全般を否定するものではない。中には「直接民主制」が有効な場合もあるだろうと思う。お互いに顔の分かる程度の地域において、直接的利害のある問題を住民投票によって決めるということはあってもよい。が、少なくとも今回のような歴史的、政治的に複雑な問題は「県民投票」に馴染まないのではないかということである。

 何より、辺野古の問題は日本だけの問題ではないということである。言うのも情けないが、この問題は米国の意向が最終的に反映される。いまだ日本は、特に軍事面においては、米国の保護下にあるのであって、日本独自に判断できるような問題ではないのである。

 だから沖縄の人たちには残念ながら泣き寝入りをしてもらうしかないと言いたいのではない。日本が本当に独立国たらんとするのであれば、自分の国は自分たちで守るべく体制を築かねばならない。そのことによってはじめて日本から米軍に出て行ってもらうことも可能となる。

 日本が安全保障問題おいて、米国依存を脱却し、自ら独自に判断を下せるような体制を築こうとすることから逃げ続けている、そのことが問題なのであって、この国会の怠慢こそが問われなければならないのだと思われる。

 残念ながら、今回の県民投票はいくら頑張っても「木を見て森を見ない」話でしかないということである。