秘密を守らなかったというのが最大の問題ではあるが、もう1つの問題は、一時保護までした案件を誰も最後まで責任もって追跡し続けなかった、換言すれば、関係者の誰もが自分事だと考えずに放置してしまったことである。
市役所に相談に行ったら、たらい回しにされたというのと同じで、学校と教育委員会と児童相談所が互いに押し付け合い、無責任に「ほったらかし」にしてしまったのである。
《子どもを守るべき大人たちの判断ミスと連携不足が、またあらわになった》(2月2日付朝日新聞社説)
というよりも、触らぬ神に祟りなしという「保身」であり、ややこしい問題には関わりたくないという「逃避」と言うべきである。
《心愛さんが一時保護と親族宅での生活を終えて親元に戻った昨年3月以降、児相は一度も家庭を訪問しなかった。「学校を通じて状況を把握できる」と過信し、けがの程度が軽かったことにも引きずられたようだ。
そして学校も、今年に入って父親から「2月初めまで休ませる」と連絡を受けたのに、特段の対応をとらなかった》(同)
《先月22日、市や児相などでつくる要保護児童対策地域協議会が開かれたが、心愛さんのケースは議題にならなかった。遺体が発見されたのはその2日後だった》(2月2日付毎日新聞社説)
昨年も同様の事件が起こっている。
《東京都目黒区で昨年3月、船戸結愛(ゆあ)ちゃん(当時5歳)が両親に虐待され、死亡した事件でも、香川県の児相が結愛ちゃんを一時保護したものの、家庭へ戻した後に一家が東京に転居し、事件が起きた。
連携が足りないのは各機関に当事者意識が薄く、親との摩擦を避けたい「事なかれ主義」がいまだに残っているからではないか》(同)
同じ過ちを繰り返すのはプロではない。その意味で、学校も市教委も児相もとてもプロとは呼べない。アンケートを実施してわざわざ「寝た子を起こした」学校に責任があるのは当然であるし、学校の問題を統括するために置かれている教育委員会にも責任がある。はたまた、地域共同体の絆が希薄化する中で児童相談所が最後の砦(とりで)として担うべき役割は今後ますます高まっていくに違いない。
《家庭内のことに法がどこまで立ち入るべきか、「しつけ」の範囲がどこまでなのか、議論が分かれることがその背景にはあるだろう。民法では明治以来、親の懲戒権が認められている。2011年の法改正でも、文言は変更されたが懲戒権そのものは残った》(2月1日付東京新聞社説)
そもそも道徳や倫理が社会でしっかり機能していれば、無闇に衝突することもなく未然に防げる部分もあるだろうと思われる。が、そうでない以上、法的に対処せざるをえない場面も今後ますます増えてくるに違いない。
今回のような事件が続くようであれば、権利の重心を家庭から社会へと少し移さねばならないのかもしれない。【了】