保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

野党に巣食う「ナショナリズム的なるもの」(1) ~反対のための反対~

先の臨時国会において桜田義孝五輪相が野党に弄(もてあそ)ばれる映像がたびたびテレビ画面に映し出されるのを観て「いやはや」と思った人は多いだろう。

《連日の桜田バッシングを見ながら、筆者の心を占めたのは、逆にマスコミに対する大きな怒りと、野党への多少の侮蔑であった。なぜなら第1に、訥弁(とつべん)で語る大臣の一挙手一投足を笑いものにするのは、まさしく「大人のいじめ」に他ならず、第2に、揚げ足取りしかやることのない野党には、既視感しか覚えなかったからだ》(先崎彰容「いじめを論じて国の不毛を憂う」:1217日付産經新聞「正論」)

 確かに、野党の桜田大臣への攻撃は見ていて気持ちの良いものではなかった。が、野党の為(ため)にする質問も質問なら桜田大臣の応答も大臣の資質が疑われるものが少なくなかったように思われる。

《首相は先の内閣改造について「適材適所」と自画自賛した。だが、実際には首相を支える二階俊博自民党幹事長の二階派に所属する桜田氏だけでなく、「滞貨一掃」とばかりに党内の各派閥が推した入閣待望組の起用が目立った》(1118日付毎日新聞社説)

 資質が疑われるような人物に「適材適所」と称して大臣の椅子を与えざるを得ないのもまた自民党の党内事情のなせる業(わざ)なのであろうが、国会そして日本の政治が詰まらぬ質疑応答で貶(おとし)められるのを我々はどこまで我慢せねばならないのだろうか。

いじめ(苛め、虐め、イジメ英: Bullying)とは、「肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力や差別、いやがらせ(被害者が精神的な苦痛や不快感を感じるすべての行為)などによって一方的に苦しめること」である。(Wikipedia

 国会での質疑応答を見ていると「いじめ」のように感じるのかもしれないが、あくまでも大臣は一議員よりも立場は上の人間である。したがって、これを「いじめ」と称するわけにはいかない。「いじめ」に見えてしまうのはただ大臣の能力不足から来るものであって、このような人間が大臣になったことがそもそもの問題と言うべきである。

 一方、野党が相変わらずであるのは言うまでもない。ただ安倍政権に賛成したくないという意地なのか面子(めんつ)なのか、反対のための反対に終始する姿勢には辟易(へきえき)する。

《現在ではほとんどあらゆる問題についての私たちの考え方を左右するほど広まっていながら、まだ名前のついていないひとつの精神的習慣がある。それにもっとも近いものとして私は「ナショナリズム」という言葉を選んでみたが、しかしすぐおわかりになるように、私は必ずしも普通に使われている通りの意味でそれを使っているのではない。

たとえば、私の言おうとしている感情は必ずしもいわゆるネイション―つまりひとつの民族ないし地理的領域―と結びつくものではない。それは宗派とか階級とかに付随することもありうるし、またなんら積極的な忠誠の対象を必要とせず、ただ何かに反対するという否定的な意味だけで作用することもありうる》(ジョージ・オーウェルナショナリズム覚書」:『オーウェル評論集2 水晶の精神』(平凡社)、p. 35

 つまり、野党もこの「ナショナリズム的なるもの」に冒(おか)されているように見られるということである。【続】