保守論客の独り言

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IWC脱退について ~日本が捕鯨にこだわるのはなぜ?~

《政府は26日、国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を発表し、菅義偉官房長官談話を発表した》(産経ニュース2018.12.26 11:23)

曰く

《わが国は、古来、鯨を食料としてばかりでなくさまざまな用途に利用し、捕鯨に携わることによってそれぞれの地域が支えられ、また、そのことが鯨を利用する文化や生活を築いてきました。

 科学的根拠に基づき水産資源を持続的に利用するという考え方が各国に共有され、次の世代に継承されていくことを期待しています》(同)

 果たして日本にはどれほど鯨食文化が根付いていたのだろうか。確かに地域によっては好んで鯨を食する所もあったのであろうが、多くは滅多に口にしないものだったように思われる。

 私は取り立てて鯨を口にしたいとは思わない。だから日本が世界に向けて大見えを切って世界との協調を断ち、鯨を捕獲して食べようとすることの意味が分からない。

 勿論、外国が日本の文化に偉そうに介入し、要は自分たちが鯨を食べないからということで捕鯨を禁止することに反感を覚えなくもない。米国に至っては、かつて産業革命後、ランプを灯す油欲しさに鯨を片端から捕獲し、油だけとってそれ以外廃棄していたという「前科」がある。名著ハーマン・メルビル『白鯨』(Moby Dick)はその時代の証人である。その米国が捕鯨反対とはどの口が言っているのかということである。

 これほど勝手な話はない。が、たとえ彼らが勝手なのだとしても、彼らの考えを変えさせることはおそらく不可能に近い。そうであるなら、これ以上IWCに留まって説得を続けても意味はない。だから脱退ということになったのであろうが、問題は彼らではなく日本の側である。

《鯨肉の国内消費量は年数千トン程度にとどまっており、肉類全体の0・1%程度に過ぎない。既存の捕鯨関係者への配慮は必要だとしても、「産業」としての将来像は不透明》(12月23日付朝日新聞社説)

であるにもかかわらず、IWCを脱退し商業捕鯨再開の道を選んだのは、

《今回の判断の背景には「捕鯨は日本の伝統文化」とする自民党捕鯨議員連盟の影響もある。古式捕鯨が伝わる和歌山県選出の二階俊博幹事長らが強い対応を求めた》(12月24日付京都新聞社説)

からだとされる。和歌山県太地(たいじ)町には悪いが、ごく限られた地域の伝統文化のために、日本が世界と対峙(たいじ)する必要があるとはとても思われない。

ニュージーランドのピーターズ副首相兼外相も声明で、IWC脱退をめぐり日本の河野太郎外相と協議したと説明。その上で「捕鯨は時代遅れで不必要な行為だ」と批判し、日本へIWC復帰を求めた》(産経ニュース2018.12.26 17:38)

 <時代遅れ>という言葉が象徴的なのであるが、今や動物愛護の名の下に偏った「正義」が世界に跋扈(ばっこ)している。その中で、鯨の生態数が増加しているから一定数の捕鯨を認めるべきだなどという論理で事を打開することは難しい。

 むしろ、どうして鯨を殺すのは駄目で牛や豚を殺すのは許されるのか、というような論理の方が有効だと思われるが、そこまでして捕鯨に拘らねばならないのかどうか。私にはそこのところに大きな疑問符が付く。