保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

最高裁大法廷が再び夫婦別姓を認めなかったことについて(4) ~「時代」とは何か~

《国際的にも夫婦同姓制は、先進国では日本以外にはない。むしろ明治の「家制度」の発想から早く脱すべきときである。

 いつまで足踏みを続けるのか。まさか伝統的家族観を重んじる議員らへの遠慮はあるまいが、時代に逆行するかのような判断を続けていると、司法と国民との距離は広がってしまう》(6月25日付東京新聞社説)

 <時代に逆行する>と言うところの<時代>とは、「時代の流れ・傾向・趨勢(すうせい)」といったものを意味するのであろう。が、どうして<夫婦別姓>を認めることが「時代の流れ」なのかが私には分からない。百歩譲って<夫婦別姓>支持が増えてきているのだとしても、どうしてそれが「時代の流れ」とまで言えるのだろうか。万万一言えるのだとしても、それが「正しい」ものかどうか別の判断が必要である。<夫婦別姓>といった大陸文化的なものが日本文化にとって「正流」だとはとても思われない。

《時代は大きく変わっているというのに、いつまで選べない時代が続くのか…社会が変わり、国民の意識が変われば、法律も時代に合わせて変えていかなければならない》(6月25日付沖縄タイムス社説)

《結婚後も仕事を続ける女性が増え、改姓に伴う不利益が問題となっている現状を無視した時代遅れの判断…夫婦別姓は明らかに時代の要請である》(6月24日付神戸新聞社説)

《個人の生き方や家族のあり方が多様化している。そうした時代の変化に逆行する司法判断だ》(6月24日付毎日新聞社説)

 選択的夫婦別姓を容認する人達は、容認することの功罪をどのように考えているのであろうか。容認派は、夫婦別姓を望むのであればそうすればよいと他人事のように軽く考えているのだろう。が、事はそれほど簡単なことではない。

 おそらく選択的夫婦別姓は、マルクス・エンゲルス共産党宣言』にある「家族解体」の一里塚であり、共産主義社会への前進である。つまり、選択的夫婦別姓容認は、共産主義の広がりを容認することと同じである。日本が共産主義化することは避けなければならない。であれば、選択的夫婦別姓は容認できないということになる。

《家族のあり方も時代によって変わり、多様な生き方を尊重できる基盤づくりが欠かせない》(6月23日付日本経済新聞社説)

 果たして<家族のあり方>は時代の変化に伴って変わるようなものなのか。<家族のあり方>とはむしろ文化伝統に掉さす不易(ふえき=時代を通じて変わらない)なものと見るべきなのではないか。

 最小単位の社会たる<家族>があればこそ文化や伝統は継承される。この<家族>が揺らげば、未来世代に、文化や伝統がうまく引き継げなくなりかねない。【続】