《衆院選では自民、公明の与党が過半数を割る一方、野党第1党の立憲民主党も過半数勢力を結集するに至っていない。「自民1強」の終焉(しゅうえん)とも言える与野党伯仲。幅広い合意形成なくして政策を遂行できない状況を、熟議の政治を取り戻す好機に転じるべきだ》(2024年10月29日付東京新聞社説)
東京社説子は、〈熟議の政治を取り戻す〉と言うが、〈熟議〉など有った試しがない。否、そもそも〈熟議〉の定義を曖昧にしたまま〈熟議〉を求めたとて、納得のゆく〈熟議〉など得られないであろう。私が疑問に思うのは、〈熟議〉を求める人達が、本当に〈熟議〉を求めているのかということだ。
例えば、マスコミの本務は「情報」を提供することにあろうが、昨今のマスコミはその本務を忘れ、自らが議論の先導者であるかのごとく、自分の都合のよい情報だけを一方的に流し続けている。詰まり、議論に必要な公平さをマスコミ自らが破壊しているということだ。それでいて、〈熟議〉を唱えるのは自家撞着も甚だしい。
百歩譲って、マスコミが直接議論に参加することがあってよい。が、議論者となるのなら、自分の意見をただごり押ししようとするのはやめるべきだ。
《熟議民主主義論にとって、選好の変容を想定しない政治は「私的利益の集計」であり、そのような政治は「共通善を志向する」ものではない。熟議民主主義論において選好の変容は、自己利益中心の政治像批判のために不可欠な視点を提供するものなのである》(田村哲樹『熟議の理由』(勁草書房)、p. 37)
〈選考の変容〉とは、自分の考えが議論を通して形を変えるということだ。各自が持ち寄った考えや意見を議場に提示し、皆でそれらを検討しながら、時に取捨選択し、時に混ぜ合わせ、1つの結論を作り上げる作業が「議論」というものである。
《与党惨敗を受け、自民党内には党総裁たる石破茂首相の責任を問う声が出ている。自ら掲げた与党過半数の目標を下回った以上、退陣論が出るのはやむを得まい》(同)
石破氏には、安倍政権が参院選で大きく議席を減らした際、退陣を迫った前歴がある。他者には辞めろと言い、自分は辞めないという態度は破廉恥(はれんち)だ。が、辞めない石破氏は、日本的な「恥の感覚」が欠落しているということなのだろう。
《ただ、石破氏は28日の記者会見で「国政の停滞は許されない」と続投する意向を表明。自公連立の枠組みは変えず、野党とも「よく協議する」と述べた。
政治改革や経済対策に野党の意見を取り入れて政権を継続することは一手段だが、仮に続投しても少数与党なら、いつでも内閣不信任決議案が衆院で可決され得る。政権運営にはこれまで以上の緊張感が必要となろう》(同)
過半数を持たない石破政権は、立民に幾つかの委員会議長の椅子を譲り渡した。自民党左派は、自民党右派旧安倍派よりも、立民の方が「馬が合う」ということのようだ。【了】