保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

シナはシナ(3)シナが駄目なら「チュウゴク」と表記すべき

《今日、同じ東京大擧に支那哲學・支那文學語學の講座名と中國哲學・中國文學の學科名があったり、同じ京都大學に支那哲學・中國文學の兩科名があつたり、諸多の大擧は殆んど凡(すべ)て中國を用ひてゐるが、最近、文部省が國立大學の學科名・講座名の統一を圍(はか)って、盡(ことごと)く支那を排して一律に中國を用ひしめようとしてゐる如きは、誠に以て言語道斷のことである》(麓保孝『宗元明清 近世儒學變遷史論』(國書刊行會)、p. 362:国立国会図書館デジタルコレクション)

 「中国」なる呼称は、中華が天下(世界)の中心であるという「中華思想」に基づくものであり、「シナ」を「中国」と呼ばされている戦後日本は、「華夷秩序」に隷属していることになるのだ。宗主国を「シナ」とは何事だ、「中国」と呼べ、という話なのである。

《一般のジャーナリストが「中國」を用ひるのは周圍(しゅうい)の事情から姑(しば)らく措(お)くとして、學術用語として「支那」の代りに「中國」を用ふる人々は、往年江戶の漢學者が、自分が學問の對象(たいしょう)としてゐる漢土・唐土を直(す)ぐに孔孟の國と過度に崇拜して、東夷の物茂卿(ぶつもけい)といふ樣な支那文化の奴隷となって自主性を缺(か)いてゐた態度や、嘗(かつ)て中華民國の五四運動・文學革命以後の事象のみに陶醉して「中國」「中國」といふ人士の觀念に相通ずるものであって、租國日本が亡びて中華民國や中華人民共和國の附屬(ふぞく)國か領土にならない限り予は到底之に與(くみ)することを了(りょう)し得ないものである》(同、pp. 362-363)

 野口氏は、不快な思いをさせたとして、「シナ」と呼んだことを謝罪した。

 「シナ」という言葉を使えば、一定の批判が起こることは予測されたことである。それでも「シナ」という言葉を使ったのだから、その責任を全うすべきではないか。

「シナ」(China)を「シナ」と呼んで何が悪いのか。むしろ「中国」と呼ばされ続けていることの方が問題ではないのか。

と毅然(きぜん)と言い返せる気概がないのであれば、初めからこの言葉を使うべきではない。

 まだまだ言い足りないところもあるが、そこは「シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由」を参照してもらいたい。

 最後に、「中国」という漢字表記は、どうしても「世界の中心にある国」という心象が植え付けられてしまうという問題がある。はたまた、日本の中国地方との混交の問題もある。

 今は、国名はカタカタ表記としていることがほとんどであり、「亜米利加」はアメリカ、「英吉利」はイギリスなのであるから、「中国」もチュウゴクとカタカナ表記にすべきではないか。

 略語は、「米国」(アメリカ)、「英国」(イギリス)であるが、「中国」は、「唐」「明」「清」など歴代の王朝をすべて「中国」としているのであるから略語ではない。その意味では「シナ」(China)とするのが妥当だと思われるのであるが、それが嫌なら「チュウゴク」と表記するしかないというのが私の妥協案である。【了】