保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

川辺川ダム論争について

《国が熊本県南部で計画を進めながら地元の反対などで白紙に戻った川辺川ダム建設を巡り、議論が再燃している。今年7月の豪雨で川辺川の本流である球磨川が氾濫したためだ》(10月8日付西日本新聞社説)

 議論って何だ。折角の防災・減災を台無しにしてしまったことへの反省が先に来なければならないのではないか。

 これが民主主義の業(ごう)というものなのか。住民が「脱ダム」を選択したのである。その責任は住民自身が負わなければならない。にもかかわらず、責任を回避しようと理屈をこねるのは見苦しい限りである。

《川辺川ダムの計画は1963年から3年連続で球磨川と川辺川が氾濫したことを教訓として66年に発表された。球磨川上流の市房ダムだけでは洪水調節の容量が足りないとの判断だ。

 今夏の豪雨災害を受けて国土交通省は先日、川辺川ダムがあった場合、球磨川の氾濫による洪水被害を軽減できたとするデータを発表した。ただ、これを疑問視する専門家もいる。

 雨量や河川の流量などをどう計算するかで、結果は異なる。明確なのは、ダムがあれば河川の流量を一定程度は抑制できる半面、それで氾濫を完全に防止できるとは言えないことだ》(同)

 社説子はこんな幼稚な論理を振り回すべきではない。人間がやることなのだからそこに<完全>など有り得ない。が、<完全>でないからといってやらないなどということにはならない。<完全>ではなくとも一定程度であれ流量を抑制できるのであればダムを建設すべきである。その上で不足する部分をどうするのかを考えるというのがふつうの道筋であろう。

 否、完全でないからということでダム建設をやめたわけではあるまい。経緯としては、2008年に就任した蒲島郁夫熊本県知事が「ダムに頼らない治水」表明、翌年「コンクリートから人へ」を標榜した民主党政権によって半ば象徴的にダム建設が中止された。要は、政治の思惑に翻弄された結果今回のような災害が引き起こされたと言うべきである。

《近年、大雨をもたらす積乱雲を次々に生む線状降水帯は発生速度が速く、予測も難しい。西日本豪雨熊本県南部豪雨の被害を拡大させた要因でもある。

 ハード面の整備だけでは対応できない豪雨を発生させる環境の変化が進んでいると考えるべきだ。川辺川ダム計画も当初や中止決定当時と状況は異なる。もはや流域には氾濫を前提にした対策すら必要ではないか》(同)

 環境が変化していなければ今回のような問題は起こらなかったという言い分なのか。実際に球磨川は環境が変化する前に何度も氾濫を起こしてきたではないか。

《専門家が提唱している「流域治水」は有効な手法の一つだ、と私たちは考える。ダムや堤防だけに頼る対策ではなく、中流下流で田んぼやクリークをため池として利用したり、都市部に雨水をためる施設を建設したりするものだ》(同)

 これはその通りである。だからこそ、ダムを建設した上でこのような補足的事業に取り組むべきだったのである。

《防災とはいえ財源には限りがある。流域全体で総合的な治水に取り組めば、仮にダムを建設するにしても費用対効果を考慮した事業にできるはずだ》(同)

 話は逆である。ダムによって災害を大枠で抑えればこそ費用は抑えられるのである。逆にダムなしの治水では莫大な財源が必要となる。実際、脱ダムに代わる治水対策を講じようとしても、費用が掛かり過ぎることが分かって何の対策も進められなかったところに今回の災害が起こったのであった。

蒲島郁夫熊本県知事はかつて反対した川辺川ダム建設を「選択肢の一つ」と軌道修正し、近く新たな治水計画を示す》(同)

 いまだこのようなことを言っている知事がリコールされないのが不思議だ。