《北海道の白老町(しらおいちょう)に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」が2020年7月12日(日)にオープン。アイヌ民族の歴史や文化を展示物や体験プログラムを通じて学ぶことができる施設です。愛称「ウポポイ」は、アイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味します》(たびらい 2020年07月12日(日))
が、アイヌが望んだことは、「箱物利権」に与(あずか)ることだったのだろうか。アイヌの文化を伝承するために、どうしてこのような馬鹿でかい人工的な施設が必要なのか。
それはさて措き、展示品の中にアイヌのものでないものが含まれていることが元北海道議の小野寺まさる氏によって指摘されている。
展示するものが無く格好がつかないからこのような「紛(まが)い物」で穴埋めしたのだろうか。それともアイヌの物産かどうかどうせ見物客は分からないと高を括って適当なものを寄せ集めて展示したのか。そういう横柄で不誠実な考え方が「アイヌ文化」というものなのだとしたら悲しいことである。
《ウポポイの職員で舞踊グループのサブリーダーを務める、地元白老町のアイヌ新谷史織さんは伝統的な文化を受け継ぐ機会がないまま育ちましたが、京都での学生生活で日本の歴史や文化に誇りを持つ人々と出会い、アイヌ文化を取り戻したいと考えるようになりました。
新谷さんはイヨマンテの舞台に取り組む中、暮らしや環境が様変わりしたいま、かつての儀式に実感を持てないという課題に突き当たったといいます。
しかし、メンバーたちと議論を重ねるなどして、厳かさだけでなく、楽しい雰囲気を醸し出すことで熊への感謝を自分たちなりに表現しようと考えアドリブのアイヌ語でかけ声を入れるなど独自の工夫を始めています》(NHK NEWS WEB:北海道 NEWS WEB 07月11日19時13分)
アイヌ自身が<かつての儀式に実感を持てない>のだから、アイヌ文化が廃(すた)れるのも無理はない。が、実感が持てようが持てまいが儀式は儀式である。儀式を否定しては文化は成立しない。
文化の内側の人間なら儀式を否定しようもない。<かつての儀式に実感を持てない>などと言うのは外側の人間の科白(せりふ)である。
さらに言えば、<かつての儀式に実感を持てない>から<アドリブのアイヌ語でかけ声を入れる>などという軽率な姿勢はアイヌ文化の冒涜(ぼうとく)するものだと思われる。これではアイヌの伝承というよりも伝統文化の破壊である。
伝統的なアイヌ文化の多くはおそらくもうすでに消滅してしまっているのだろう。だから継承実演しようにも出来ないということなのではないか。
《明治政府が推進した開拓によって住む土地を追われ、狩猟や漁労といった生業が奪われた。先住民族としての権利を侵害され、差別を受けてきた。かつての同化政策でアイヌ語が禁じられ、文化も存立の危機にある》(7月15日付毎日新聞社説)
が、アイヌは「先住民族」と呼べる存在なのかという学術的、根本的問題がある。
《弥生文化の時期にも稲作が普及しなかった北海道では、縄文→続縄文→擦文(さつもん)と独自の文化が展開した。アイヌはその流れをくむと考えられてきたが、縄文の系統には無い文化の要素も持つ。代表例は熊を使う儀式で、同じような習俗がオホーツク文化にもあったことが確認されている》(「消えた北方民族の謎追う 古代『オホーツク人』北大が調査」:asahi com. 2009年2月4日11時2分)
アイヌ文化が花開く前に、縄文文化、続縄文文化、擦文文化があった。そこにオホーツク人が紛れ込んできてアイヌとなった。【続】