保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「表現の不自由展」中止について(1) ~自由の暴走~

 《国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」が、開幕直後に中止に追い込まれた。

 過去に公的施設などで展示が許されなかった作品を集め、表現行為について考えを深めようという展示だった。芸術祭として個々の作品への賛意を示すものではなかったが、慰安婦に着想を得た少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像に抗議が殺到した。放火の予告まであったという。もはや犯罪だ》(8月6日付朝日新聞社説)

 放火予告は論外として、今回の論点を整理していこう。

 憲法に言う「表現の自由」とはいかなるものか。

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

  が、この自由は無制限ではない。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

  つまり、「表現の自由」は、これを<濫用してはならない>し、また<公共の福祉>に反してもならないということである。

 では今回の「作品」(?)はどうだったのか。

 「元従軍慰安婦の少女像」の映像をよく目にするけれども、これよりも絶対に許せないのが昭和天皇御真影を燃やし、灰にして踏み付けるというものである(https://twitter.com/i/status/1158161900040933376)。

 最近、朝鮮人が日本のやり方が気に入らないということで、公然と国旗や写真を燃やす映像をよく目にするが、このようなことは民族性の違いなのだろうと思っていたけれども、日本でも同じようなことが行われることは慙愧(ざんき)の念に堪えない。

 もう1つ許せないのが、特攻隊員の寄せ書きを天辺に張り付けた、「間抜けな日本人の墓」と題するオブジェである(https://twitter.com/MHW_Snake/status/1158936882656362499/photo/1)。

 今の平和な世の中において、お気楽に「間抜け」と批評する人間の品性下劣さは言うまでもない。今にして思えば、もっと効果的な戦い方があっただろうと思われなくもないが、それと特攻作戦に身を投じた若者の「清い心」は別である。我々が今あるのは、日本のために戦った英霊たちのお陰でもある。

 これらは果たして「芸術」なのか。「芸術」とはそんな低俗なものだったのか。

 「自由」は出来得る限り尊重されるべきであるにしても、自由社会を破壊する「自由」までを認めるわけにはいかない。健全な「自由」には「秩序」が必要である。公序良俗に反する「自由」までをも認めるわけにはいかない。【続】