《厚生労働省が公表した人口動態統計(概数)によると、2018年に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は3年連続で100万人を割り、91万8397人になった。統計を取り始めて以来、最少だ。
1人の女性が生涯に産む子どもの推計人数を示す合計特殊出生率も3年続けて低下し1・42になった。
一方、死亡数は136万2482人(前年比2万2085人増)で戦後最多となった。出生数を引いた自然減は44万4085人で、初の40万人超となった。
少子化と多死化が同時進行すれば、人口減は避けようがない》(6月11日付京都新聞社説)
人口が減少すれば即、問題であるかのように言う風潮があるが、どの程度の人口が日本にとって最適なのかも考えず、ただ人口減少を問題視するのは愚かである。
勿論、何をもって「最適」というのかは議論のあるところであるが、問題は、人口減少問題が高度成長期に作られた右肩上がりの経済下での社会制度をただ維持するために述べられているところにある。
であるなら、人口減少社会に見合った社会制度へと改革すればよいのであって、現在の社会制度を維持しようと人口を人工的に増やそうとするのは本末転倒ではなかろうか。
また
《桜田義孝前五輪相が政治家のパーティーで「お子さんやお孫さんにぜひ、最低3人以上産むようお願いしてもらいたい」と述べ、批判を受けたのは、当然だろう》(同)
などと言っているようでは出生率が回復することは見込めない。
この発言をただ無理をして子供を増やせと言っていると捉えればとんでもない発言ということになるのであるが、桜田氏がこのような発言をしたのは、かつて子供が生まれることを喜ぶ大家族があり、地域共同体があったからだと思われる。これを時代錯誤の「懐古」と言えなくはないが、そういう時代がついこの間まであったことは理解しておくべきであろうと思われる。
それが解っていないから
《子どもを産む、産まないはもちろん個人の自由な選択だ》(6月7日付日本経済新聞社説)
などという話になってしまうのである。子供を産む、産まないが個人の自由選択となってしまったこと、私はそれが少子化の1つの大きな原因であろうと思っている。
《伝統的な家族のあり方を否定はしないが、ライフサイクルの標準形が成立しにくい時代だ。この機をとらえて結婚のかたちの多様化を後押しし、自然に子供を増やせる環境をはぐくみたい》(6月2日付日本経済新聞社説)
確かに<標準形>は成立しにくい時代ではあるだろう。が、だからといって<標準形>がなくなってよいわけではない。たとえ<標準形>が成立しにくくとも<標準形>を模索する努力は必要であろう。少なくとも新たな命が生まれることを喜ぶ社会の復権が必要なのではないか。【続】