保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

文大統領の徴用工発言について(1) ~まさに福澤諭吉が言い当てたこと~

《斯る國人に對して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に從来の國交際上にも屡ば實験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無效のものと覺悟して、事實上に自ら實を収むるの外なきのみ》(福澤諭吉明治30年10月7日付「時事新報』:『福澤諭吉全集 第16巻』(岩波書店)、p. 133)

(こういった国の人達に対していかなる約束を結んでも、信義に背き約束を違えることは彼らの性分であり、まったく気にするところがない。すでに従来の外交でもしばしば実際に体験されたことであるから、朝鮮人相手の約束ならば最初から無効のものと覚悟して、実際のところ自ら実を取る以外にない)

― 〇 ―
 

《韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領がきのうの年頭記者会見で、元徴用工に対する賠償を新日鉄住金に命じた韓国最高裁判決を尊重する考えを表明した。

 その上で「日本の政治指導者が政治的な争点とし、問題を拡散させているのは賢明でない」「日本政府はもう少し謙虚な立場を持たねばならない」と注文をつけた。

 判決を巡り日本側は1965年の日韓請求権協定に基づく政府間協議を要請している。文氏の発言は、日本企業の資産差し押さえを回避すべきだと迫る日本政府に不快感をにじませ、日本の求めを事実上拒否したといえる》(111日付京都新聞社説)

 こんな無責任な指導者が隣国にいることの悲劇を私は残念に思う。が、この構図は明治以来変わらぬものであり、今更腹を立てても詮無き事である。

 福澤諭吉は言った。

《我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古来亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國民に異ならずと雖ども、其人種の由来を殊にするか、但しは同樣の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國相對し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、

此二國の者共は一身に就き又一國に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風舊慣に戀々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學枚の教旨は仁義禮智と科し、一より十に至もまで外見の虛飾のみを事として、其實際に於ては眞埋原則の知見なきのみか、道徳さへ地を沸ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し》(「脱亞論」:『福澤諭吉全集 第10巻』(岩波書店)、p. 239

(わが日本の国土はアジアの東の端にあるけれども、国民の精神は既にアジアの旧弊を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここで不幸なのは隣国があり、1つを支那といい、1つを朝鮮という。この2国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのだけれども、人種の由来が違うのか、もしかすると同様の政治・宗教・風俗の中にいながらも受け継いだ教育に同じでないところがあるためか、日支韓の3国を比較すれば、支那と韓国が互いに似通っている様は支那・韓国と日本よりも近く、

この2国の者たちは、自分の身の上についても、自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らず、交通が便利な世の中で文明の物事を見聞きしないわけはないが、耳や目の見聞は心を動かすまでには至らず、古い習慣や仕来りを断ち切れぬ姿は、百千年の昔と異ならず、この文明が日に新たなる活劇の場に、教育を論ずれば儒教主義と言い、学校で教えるべきは仁義礼智と言い、一から十まで外見の虚飾だけを大事にして、実際においては真理や原則を知らないだけでなく、道徳さえもすっかりなくなって残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念のない者のようである)【続】