保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

合同葬弔意要請について(1) ~教育への不当介入~

《昨年11月に101歳で死去した中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬が17日、東京・高輪のグランドプリンスホテル新高輪で営まれた。葬儀委員長の菅義偉(すが・よしひで)首相ら政界関係者や近親者ら644人が参列し、国鉄民営化などの業績を残した故人をしのんだ》(産経ニュース2020.10.17 19:28)

 この合同葬を巡って一悶着(ひともんちゃく)あった。

《内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬に合わせ、文部科学省が全国の国立大などに、弔旗の掲揚や黙とうを求める通知を出していたことが分かった。

(中略)

 加藤勝信官房長官は15日の記者会見で、「教育の中立性は侵さない」「関係機関で自主的に判断される」などと述べ、強制ではなく問題はないとの認識を示している》(10月16日付京都新聞社説)

 これには前例がある。

《1987年に岸信介元首相の合同葬が行われた際も政府は弔意表明を求める通知を出した。だが、元A級戦犯容疑者だった岸氏の経歴もあって物議を醸し、教育現場や自治体で要請通り弔意を示したのは一部にとどまった。

 こうした経緯からか、政府要請に遺族が難色を示した例もある。

 2006年行われた橋本龍太郎元首相の合同葬に際し、高知県知事だった弟の橋本大二郎氏は「一般の国民には強制とも受け止められかねず遺族の本意ではない」と内閣に固辞する意向を伝達。同県内の市町村に知事名で通知された要請も撤回した。

 07年の宮沢喜一元首相の合同葬では、政府は弔意表明要請を行わなかった。遺族の意向があったとみられている》(10月17日付沖縄タイムス社説)

 だから中曽根元首相の合同葬も慣例に従ったという体(てい)なのであろう。が、

《政府の弔意表明要請には内心の自由を侵しかねない懸念がある。学校現場にまで要請することは、特定政党の支持につながる活動をしてはならないと定める教育基本法に触れる恐れがある》(同)

 <要請>なのであるから、<内心の自由>は侵害されないし、教育基本法にも抵触しないだろう。が、法に触れないからといってこのような<要請>を黙過するわけにもゆくまい。

思想統制のようで、単純に気味が悪い。国葬でもないのに、『国立』と名の付く組織に勤務しているだけで従う義理はない。何か勘違いされているのではないか」(大阪大の男性教授)(毎日新聞2020年10月14日 21時34分)

 <弔意>表明を要請することは<思想統制>ではない。<義理>という言葉づかいも引っ掛かるが、大阪大教授の国語力がこの程度とはお寒い限りである。

「政府の対応は明らかにやり過ぎで国民目線からずれている」「中曽根元総理は日本にとって大きな存在だったかもしれないが、個人がそれぞれ弔意を示せばよい。政治家が指示したとしても、官僚がストップをかけなければならない」(北海道大の50代の男性教授)(同)

 <国民目線>も様々であろう。自分の目線だけが<国民目線>であるかのように言うのは間違っている。【続】

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(6) ~「アイデンティティという危機」~

《一義的なアイデンティティに硬直し,単一の価値に凝り固まった自己はもはや思考することはできない.自己―思考する存在者としての自己―にとっての危機は,さまざまな価値を整序化する何らかの中心的・支配的な価値が欠けていることーいわゆる「アイデンティティ・クライシス」―ではなく、逆に,ある1つの絶対的な価値が自己を支配するような「アイデンティティという危機」である》(齋藤純一『公共性』(岩波書店)、pp. 102-103)

 エリクソンの言う「アイデンティティの危機」とは普通、青年期のものであるが、より一般化して考えると、それは複数の価値との<交友>の平衡が崩れることではなく、<交友>が絶たれ単一の価値に凝り固まることによって起こる。複数の価値との<交友>が失われれば<思考>することが出来なくなるからである。

《複数性は公共性における「政治の生」の条件であるとともに,自己における「精神の生」の条件でもある.私たちが恐れねばならないのは,アイデンティティを失うことではなく,他者を失うことである.他者を失うということは,応答される可能性を失うということである.それは,言葉の喪失を,「言葉をもつ動物」(ゾーン・ロゴン・エコン)としての政治的な存在者にとっての「死」をもたらす》(同、p. 103)

 アレントは言う。

《活動(action)とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。

しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。たとえば、私たちが知っている中でおそらく最も政治的な民族であるローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」(inter homines esse)ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」(inter homines esse desinere)ということは同義語として用いられた》(『人間の条件』(ちくま学芸文庫)、p. 20)

 随分難解なところに入り込んでしまったがゆえに、「群盲象を評す」かのような甚だ統一性のない話になってしまったけれども、私なりに問題の方向性が粗方見えてきたようにも思われるので、今後は松尾芭蕉の「軽(かろ)み」のように、「深く学んで易しく語る」ことの出来るよう研鑽を積み重ねたいと思うところである。【了】

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(5) ~アイデンティティの危機~

《「自分が何者であるか」が社会とのつながりにおいて把握され、かつ実感されているものがアイデンティティであり、これが危機にさらされるとき、人はいきいきとした存在感や生の目標をもてなくなる》(宮島喬『デュルケム 自殺論』(有斐閣新書)、p. 96)

 心理学者エリクソンの言った「アイデンティティの危機」(identity crisis)である。が、

《私たちはただ1つの「アイデンティティ=同一性」を生きているわけではない。「アイデンティティ」という言葉を用いるならば、自己のアイデンティティは通常は複数である》(齋藤純一『公共性』(岩波書店)、p. 102)

 我々は通常、家族、地域共同体、職場・学校といった複数の「中間社会」に属し、それぞれの義務や役割を担っている。だとすれば、我々は複数のアイデンティティを有していると言えるわけである。

《何らかの集団に抱かれるアイデンティティがより大きな比重を占めることがあるとしても、それ以外のアイデンティティが失われることはない。自己は、それ自体複数のアイデンティティ、複数の価値の〈間の空間〉(inner-space)であり、その間に抗争があるということは、自己が断片化しているということを意味しない。葛藤があり抗争があるということは、複数の異質な(場合によっては相対立する)アイデンティティや価値が、互いに関係づけられているということを意味する》(同)

 つまり、「アイデンティティの危機」とは「中間社会」との関係が希薄化し孤立無援化するということである。

Loneliness is not solitude. Solitude requires being alone whereas loneliness shows itself most sharply in company with others. —Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism, Chapter 13

(孤独感は孤独ではない。孤独は独りでいることを要求するのに対し、孤独感は他者と一緒にいるとき最も鮮明に姿を現す)

In solitude … I am "by myself," together with my self, and therefore two-in-one, whereas in loneliness I am actually one, deserted by all others. — Ibid

(孤独では…私は「独り」であり、自己と共にあり、したがって一者のなかの二者であるのに対し、孤独感では、私は実際に一人であり、すべての他者に見捨てられている)

All thinking, strictly speaking, is done in solitude and is a dialogue between me and myself; but this dialogue of the two-in-one does not lose contact with the world of my fellow-men because they are represented in the self with whom I lead the dialogue of thought. The problem of solitude is that this two-in-one needs the others in order to become one again: one unchangeable individual whose identity can never be mistaken for that of any other. For the confirmation of my identity I depend entirely upon other people; and it is the great saving grace of companionship for solitary men that it makes them "whole" again, saves them from the dialogue of thought, in which one remains always equivocal, restores the identity which makes them speak with the single voice of one unexchangeable person. — Ibid

(すべての思考が、厳密に言えば、孤独の中でなされ、私と私自身との対話である。が、この一者のなかの二者の対話は、私の同胞たちの世界との連絡を失うことはない。なぜなら彼らは、私が思考の対話を行う自己の中に表されているからである。孤独の問題は、この一者のなかの二者がふたたび一者、すなわちアイデンティティが他のどのそれとも決して見誤られない一者の不変の個人となるために他者が必要であるということである。自分のアイデンティティの確認には全面的に他者に依存する。孤独な人にとって交友が偉大な加護であるのは、それが彼らを再び「全体」にし、常に多義的なままである思考の対話から救い、交換できない一者の単独の声で話させるアイデンティティを回復するからである)

 <交友>がアイデンティティの安定には欠くべからざるものだということである。【続】