保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(6) ~「アイデンティティという危機」~

《一義的なアイデンティティに硬直し,単一の価値に凝り固まった自己はもはや思考することはできない.自己―思考する存在者としての自己―にとっての危機は,さまざまな価値を整序化する何らかの中心的・支配的な価値が欠けていることーいわゆる「アイデンティティ・クライシス」―ではなく、逆に,ある1つの絶対的な価値が自己を支配するような「アイデンティティという危機」である》(齋藤純一『公共性』(岩波書店)、pp. 102-103)

 エリクソンの言う「アイデンティティの危機」とは普通、青年期のものであるが、より一般化して考えると、それは複数の価値との<交友>の平衡が崩れることではなく、<交友>が絶たれ単一の価値に凝り固まることによって起こる。複数の価値との<交友>が失われれば<思考>することが出来なくなるからである。

《複数性は公共性における「政治の生」の条件であるとともに,自己における「精神の生」の条件でもある.私たちが恐れねばならないのは,アイデンティティを失うことではなく,他者を失うことである.他者を失うということは,応答される可能性を失うということである.それは,言葉の喪失を,「言葉をもつ動物」(ゾーン・ロゴン・エコン)としての政治的な存在者にとっての「死」をもたらす》(同、p. 103)

 アレントは言う。

《活動(action)とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。たしかに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。

しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。たとえば、私たちが知っている中でおそらく最も政治的な民族であるローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」(inter homines esse)ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」(inter homines esse desinere)ということは同義語として用いられた》(『人間の条件』(ちくま学芸文庫)、p. 20)

 随分難解なところに入り込んでしまったがゆえに、「群盲象を評す」かのような甚だ統一性のない話になってしまったけれども、私なりに問題の方向性が粗方見えてきたようにも思われるので、今後は松尾芭蕉の「軽(かろ)み」のように、「深く学んで易しく語る」ことの出来るよう研鑽を積み重ねたいと思うところである。【了】