保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(4) ~アノミー~

《産業上あるいは金融上の危機が自殺を増加させるといっても、それらが、生活の窮迫をうながすためではない。なぜなら、繁栄という危機も、それと変わらない結果をもたらすからである。其の理由は、それらの危機が危機であるから、つまり集合的秩序を揺るがすものであるからなのだ》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著 47』(中央公論社宮島喬訳、p. 201)

 「コロナ禍の危機」が人々の精神を不安定にしているだろうことは想像に難くない。が、<危機>とはこういった負の要因によるものだけではない。<繁栄>もまた<危機>だとデュルケームは言うのである。

《なんであれ、均衡が破壊されると、たとえそこから大いに豊かな生活が生まれ、また一般の活動力が高められるときでも、自殺は促進される。社会集団のなかになにか重大な再編成が生じるときには、たとえそれが突然の発展的な運動に起因するものであろうと、なにか不意の異変に起因するものであろうと、きまって人々は自殺にはしりやすくなる》(同、pp. 201-202)

 正の要因であれ負の要因であれ、社会の変化が大きくなり均衡が崩れると自殺に陥り易くなる。つまり、必要なのは社会の均衡であり平衡なのである。

《いったん弛緩(しかん)してしまった社会的な力が、もう一度均衡をとりもどさないかぎり…欲求の相互的な価値関係は、未決定のままにおかれることになって、けっきょく、一時すべての規制が欠如するという状態が生まれる。人々は、もはや、なにが可能であって、なにが可能でないか、なにが正しくて、なにが正しくないか、なにが正当な要求や希望で、なにが過大な要求や希望であるかをわきまえない。だから、いきおい、人はなににたいしても、見境なく欲望を向けるようになる》(同、p. 211)

 社会の均衡が崩れれば、個人の欲望を規制するものがなくなり、欲望はただ肥大化する。

《欲望は、方向を見失った世論によってはもはや規制されないので、とどまるべき限界のどこにあるかを知らない。そのうえ、このときには、一般に活動力が非常に高まっているため、それだけでも、欲望はひとりでに興奮状態におかれている。繁栄が増すので、欲望も高揚するというわけである。欲望にたいして供される豊富な餌は、さらに欲望をそそりたて、要求がましくさせ、あらゆる規則を耐えがたいものとしてしまうのであるが、まさにこのとき、伝統的な諸規則はその権威を喪失する。したがって、この無規制あるいはアノミーの状態は、情念にたいしてより強い規律が必要であるにもかかわらず、それが弱まっていることによって、ますます度を強める》(同、pp. 211-212)

 このように個人の欲望を肥大化させる土壌としての社会の無秩序状態をデュルケームは「アノミー」と呼んだ。この「アノミー」こそが人の心を乱す元凶だと言うのである。

《だが、そのときには、情念の要求するものそれ自体がはじめから充足を不可能にしている。激しくかきたてられる渇望は、獲得された成果がなんであろうと、つねにそれをふみこえてしまう。こえてはならない限界について警告を発してくれるものがないからである。したがって、渇望を満たすものがないまま、その心の苛(いら)だちは、それ自体やすらぎもなく永久につづく》(同、p. 212)【続】

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(3) ~自己本位的自殺~

《自殺の第一の形態(自己本位的自殺)…その特徴は、行動への活力を弱める憂鬱なもの思わしさにある。事業、公職、有益な仕事、そして家庭の義務ですら、彼を、ただ無関心とよそよそしい感情にいざなうばかりである。

彼にとっては、自分自身の外へ出ていくのがいとわしい。その代わり、思索と内面的生活のなかで、活動力において失われていたものがすべて回復される。意識は、周囲のものをすべて遠ざけ、みずからについて反省をめぐらし、自己をその固有の唯一の対象とし、これを観察し、分析することをもっぱらのつとめとする。

しかし、この極端な自己集中の結果、意識は、みずからと自余の宇宙のあいだを隔てているみぞをいっそう深くうがつばかりである。個人がこの点で自分自身の虜となるや否や、彼はひたすら、自分自身でないすべてのものから身を遠ざけるようになり、さらにその状態を強めることによって自分をつつむ孤独の状態を確立する》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著 47』(中央公論社宮島喬訳、p. 242)

 <自己本位的自殺>とは、日常の<憂鬱>の中で、反省を巡らす個人が社会から孤立していくことによって起こる。

《個人が伝統的信仰や共同体の支配から自由になり、自律性を獲得し、個人化していくのは必然的な趨勢(すうせい)である。しかし、この近代社会にあって、そうした諸個人を参加させ、適切な心理的な支えをあたえうるようなあらたな集団的環境がつくられなければ、個人化の進行は、自由でありつつ孤独であるような原子化された個人を生みだすばかりであろう》(宮島喬『デュルケム 自殺論』(有斐閣新書)、p. 95)

 自由は孤独である。我々はどれほどこの孤独に耐えることが出来るのだろうか。

《欲求がたんに個人だけにもとづいているかぎり、けっきょく、それは、際限のない欲求となってしまう。人間の感性は、それを規制しているいっさいの外部的な力をとりきってしまえば、それ自体では、なにものも埋めることのできない底なしの深淵である。

 そうであるとすれば、外部から抑制するものがないかぎり、われわれの感性そのものはおよそ苦悩の源泉でしかありえない。というのは、かぎりなき欲望というものは、そもそもその意味からして、満たされるはずのないものであり、この飽くことを知らないということは、病的性質の一徴侯とみなすことができるからである。

限界を画すものがない以上、欲望はつねに、そして無際限に、みずからの按配(あんばい)した手段をこえてしまう。こうなると、なにものもその欲望を和らげてはくれまい。やみがたい渇(かわ)きは、つねに新たにおそってくる責苦である》(デュルケーム、同、p. 204)【続】

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(2) ~反省と憂鬱~

ヨーロッパにおいて、同じキリスト教でもカトリックが多いところよりもプロテスタントが多いところの方が自殺率が倍高いというデータから、プロテスタントが「個人主義」的であるのが原因ではないかとデュルケームは考えた。

《たとえば、プロテスタントは自分一人で聖書を読む。勝手に読んで、自分で自由に解釈するのです。しかしカトリックはそれをやってはいけない。聖書の自由検討をカトリックは許しません。だから、読めなくてもいいわけです。しかし、プロテスタントは自分で、自らの責任において解釈しなければいけない。そういうかたちで、プロテスタント個人主義的な態度が形成される。

 そういう個人は、共同体から切り離されているー今風に言うと、絆が弱くなるーわけです。プロテスタントの場合には、自分で孤独に世界と自らを見つめ直し、反省することが中心になりますから。このように集団から個人が分離しているとき、自殺が起きやすくなる》(大澤真幸社会学史』(講談社現代新書)、p. 230)

 <反省>とは自らの態度や行為などを省(かえり)みることである。人は、ただ生きるのではなく「善く生きる」ためには、自らの態度・行為などを反省することも必要である。が、人は、順風満帆の時に<反省>などしない。<反省>するのは何か問題が生じたときである。

《反省というものは、その発達が必要とされるときにだけ、つまり、それまで支障なく行為をみちびくことのできた無反省なある観念や感情がその効力を失ってしまったときに、はじめて成長してくる。このときその空隙(くうげき)を埋めるために反省が起こってくるのであるが、べつに反省がこの空隙をうがったわけではない。思考や行為が無意識な習慣のかたちをとるにつれて反省がしりぞいていくのと同様に、既成の習慣がくずれはじめると、はじめてそれに応じて反省がめざめてくる》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著 47』(中央公論社宮島喬訳、p. 98)

 <習慣>が崩れればそれを修復すべく<反省>を迫られる。が、たとえ自らに問題がなくても<反省>を迫られる場合もある。

《反省は、通念がもはや従来どおりの力をもたなくなったとき、すなわち、もはや同程度の通用性をもたなくなったとき、通念にたいしてその権利を主張するようになる。したがって、この権利の主張が、しばしのあいだ一時的な危機のもとにのみ行なわれるのではなく、それが常態になって、個々人の意識が常時この反省の自律的作用を確立するようになるということは、とりもなおさず、個々人の意識がさまざまな方向にさまよいつづけていて、すでに崩壊してしまった世論に代わる新しい世論がまだ形成されていないことを意味している》(同)

 問題が個人ではなく社会の側にある場合、<反省>は半ば常態的なものとなる。が、いくら<反省>すれども問題は根本的解決をみない。そのことは個人を「憂鬱」にする。

「周囲のすべてを彩る憂鬱は、自分自身の憂鬱と驚くほどにひびきあっていた。それは、私の憂鬱を魅了し、つのらせた。私は悲哀の底しれぬ深みに身を沈めた。

だが、それは生き生きと脈打ち、私の心のうちで、思想、印象、無限との交感、明暗によって満ちていた。それは、私を悲哀からのがれようとさせないほどであった。それは人を冒す病。しかし、病の感覚が苦痛であるよりもむしろひきこまれる魅力であるような、またそこでは死が無限に向かっての逸楽(いつらく)に満ちた消滅にも似ているような、そんな病なのだ。

それからというもの、私はこの悲哀にすべてをゆだね、悲哀をまぎらわすことのできる社会というもののいっさいから隠遁(いんとん)し、ここで出会う世界のなかで、沈黙、孤独、無関心をもって身をつつむことに心を決めた。自分の精神の孤独は一つの屍衣(しい)―それを通しては、私はもはや人間にまみえようとはしなかった、まみえたいと願うのはただ自然と神のみ」(ラマルティーヌ『ラファエル』:同、pp. 243-244)【続】