保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(1) ~自殺の潮流~

三浦春馬芦名星竹内結子。立て続けに有名俳優が自ら命を絶ったことは、関係者のみならず国民に少なからず動揺と不安を醸(かも)しているに違いない。一体何が起こっているのか、やや難解な話に踏み込まざるを得ないのだけれども、少し考えてみたいと思う。

警察庁のデータによると、今年8月の自殺者数は全国で1849人で、昨年同月比246人(15・3ポイント)増。新型コロナ禍の今年は7月までは減少、例年と同レベルで推移していたが、8月が急増した。中でも、男性は1199人(前年同月比60人増)に対し、女性は650人(同186人増)と約40ポイント増となっている。

「昨年1年間の自殺者数2万169人中、男性は約7割、女性は3割だが、今年8月は男性64・8%、女性は35・2%と女性の比率が上がっている。年齢や職業、原因など詳細なデータは出ていないが、少なからず、コロナの影響が出たのではないか」(行政関係者)》(東スポWeb 9/27(日) 19:44配信)

 コロナ禍の影響があるであろうことは想像に難くない。が、一口にコロナ禍の影響と言っても様々な側面が考えられる。仕事の問題もあれば、お金の問題もある。勿論、健康の問題もあろう。が、私が気になるのはもっと基層に流れる「通奏低音」である。

 フランスの社会学エミール・デュルケームは、

《それぞれの社会は、歴史の各時点において、ある一定の自殺への傾向をもっている》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著 47』(中央公論社宮島喬訳、p. 68)

と言う。そして「社会的自殺」を3つの類型に分類した。

(1)自己本位的自殺
(2)集団本位的自殺
(3)アノミー的自殺

 ここで「集団本位的自殺」は「殉死」や「殉教」などのように自分が所属する集団のために殉ずるものであるが非日常的であり、我々の関心は「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」ということになろう。

《社会によってその比重に大小の差はあっても、自己本位主義、集団本位主義、そしてある程度のアノミーと結びついていないような道徳的理想は存在しない。なぜなら、社会生活は、個人が一定の個性をもっていること、個人は集団の要求によってはその個性を放棄する覚悟をもっていること、そして個人にはある程度進歩の観念を受けいれる用意のあること、などを同時的に想定してなりたっているものだからである。それゆえ、人々を3つの異なった、しかも矛盾してさえいる方向にみちびくこの3つの観念の潮流が並存していないような民族はない。

それらがたがいに和らげあっているようなところでは、道徳的存在としての人間はある均衡のとれた状態にあって、いっさいの自殺の観念の虜とならないように守られている。ところが、その潮流の1つが一定の度をこえて他の潮流を圧するようになると…それは個人をとらえ、自殺の潮流に変わる。

 この潮流が強ければ強いほど、当然、それに深く冒されて自殺への決意をかためる者もそれだけ多くなる》(同、p. 292)

 産業化の波に呑まれ、急激な変動によって規範が揺さぶられる中にあっても、社会には曲がりなりにも<秩序>というものが存在する。それがコロナ禍の影響で<均衡>を失い、<自殺の潮流>というものを生み出してしまっているのではないか、と疑われるのである。【続】

大阪市廃止住民投票について(4) ~全体主義的手法~

大阪市を廃止するというやり方には、「全体主義」的なものが感じられる。全体主義と言えば、ソ連邦ナチスドイツが思い起こされるところであるが、全体主義化の第一歩が「中間組織」の破壊である。

《共通の世界が完全に破壊され、内部に何らの相互関係を持たない大衆社会、単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何者にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会が成立したときはじめて、全体的支配はその全権力を揮って何ものにも阻まれずに自己を貫徹し得るようになる》(ハナ・アーレント全体主義の起原 第3巻』(みすず書房)大久保和郎・大島かおり訳、p. 34)

 国家と個人の間には、本来様々な組織が介在する。家族があり、地域社会があり、職場や学校がある。それらにはそれら独自の仕来(しきた)りがあり、習慣があり、規範がある。そしてそこには固有の価値観があり、「常識」がある。

《常識というものは本来、全く曖昧さのない現実、すべてが完全に一致する現実なぞあり得ないと考えている…しかしもし常識がこの先入観を持たなかったら、常識は現実的な判断力を失って、人間の悟性自体に内在する矛盾のない推理のロジックのみを頼るようになる》(同、p. 81)

 大阪市を廃止すれば、「二重行政の無駄」がなくなり、大阪再生の基盤が出来るなどという話は「常識」的には胡散臭い限りであるが、判断の基準となる「常識」が無くなれば、維新の掲げる「構想」を悟性の赴くまま信じざるを得なくなってしまうだろう。

《自由な人民の力が住まうのは地域共同体の中なのである。地域自治の制度が自由にとってもつ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって自由は人民の手の届くところにおかれる。それによって人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。地域自治の制度なしでも国民は自由な政府をもつことはできる。しかし自由の精神はもてない。束の間の情熱、一時の関心、偶然の状況が国民に独立の外形を与えることはある。だが、社会の内部に押し込められた専制は遅かれ早かれ再び表に現れる》(トクヴィルアメリカのデモクラシー 第1巻(上)』(岩波文庫)松本礼二訳、p. 97)

 大阪市民には大阪市民独自の「常識」がある。それは長年の歴史を積み重ねてきた先人の営為を通し有難くも培われたものである。

《地域共同体の自由は人間の努力次第でできるというものではない。したがって、それが人の手で創り出されることは滅多になく、いわばひとりでに生まれてくるのである。それは半ば野蛮な社会の中でほとんど人知れず成長する。法と習俗と環境、なかんずく時間の絶えざる作用がようやくこれを確たるものにする》(同)

 言うまでもなく、「常識」は大阪市という母体あってのものである。大阪市が無くなれば、この「常識」は雲散霧消してしまい、日常は混沌としたものとならざるを得ないであろう。【了】

大阪市廃止住民投票について(3) ~漸進主義~

俳人松尾芭蕉の有名な言葉に「不易(ふえき)流行」がある。本質的なものを大切にしつつ新陳代謝を欠かさない。私はここに保守政治の本質があると思っている。その要諦(ようたい)は「漸進(ぜんしん)主義」にある。

 漸進主義は、急進的社会変革を嫌う。一方で現状追認主義の立場もとらない。現状をただ墨守(ぼくしゅ)し続ければ、結局は大きな変革を呼び込んでしまうからである。時代に置いて行かれないように、徐々に変え続けること。それが漸進主義である。

By a slow but well-sustained progress, the effect of each step is watched; the good or ill success of the first gives light to us in the second; and so, from light to light, we are conducted with safety through the whole series. We see that the parts of the system do not clash.

The evils latent in the most promising contrivances are provided for as they arise. One advantage is as little as possible sacrificed to another. We compensate, we reconcile, we balance. We are enabled to unite into a consistent whole the various anomalies and contending principles that are found in the minds and affairs of men. From hence arises, not an excellence in simplicity, but one far superior, an excellence in composition.

Where the great interests of mankind are concerned through a long-succession of generations, that succession ought to be admitted into some share in the councils which are so deeply to affect them. If justice requires this, the work itself requires the aid of more minds than one age can furnish. –Edmund Burke, Reflections on the Revolution in France: Part II

(ゆっくりではあるがしっかり支えながら進むことで、一歩一歩の結果が観察される。初めの一歩の出来不出来が次なる一歩において我々に光を与えてくれる。そうして光から光へと全過程を通して安全に導かれる。体系の部分部分が衝突しないのが分かる。

最も有望な考案にさえ潜在する弊害は、表面化すると共に備えられる。1つの利点が別の利点の犠牲となることは能(あとう)限りない。補正し、調和し、平衡は保たれる。人間の精神や仕事に見られる様々な不調和や対立する原則を首尾一貫した全体と成すことができる。ここから単純の優秀ではなく、遥かに優れたもの、複合の優秀が生まれる。

人類の大きな利害が幾世代も長く継続して関わる場合、とても深くその利害に影響するだろう協議において、その継続に幾ばくかの役割を認めるべきである。正義にはこのことが必要であるなら、その仕事自体一時代が与え得る以上の知性の援助が必要となる)

 私は、維新の急進的改革に反対だが、同時に維新以外の旧套(きゅうとう)墨守にも賛成できない。急進的改革か現状維持による衰退かの二者択一になっているのが大阪の悲劇なのである。

 ただ否定的に「無駄の元凶」としか見ないのではなく、今、しかと存在する大阪市を「いかに活かすか」という考え方の方がよほど建設的だろう。大阪市を無理矢理無くして大阪府が肩代わりするよりも、大阪市がやれることは大阪市に任せ、二重行政とならぬよう、むしろ大阪府が手を引けばよいだけではないか。大阪府は府全体のことを考えるべきであるし、まして大阪を副首都としたいのなら大阪市廃止の後始末に手を取られてはいられないはずである。

 私は大阪を変えるためには、時間はかかるだろうが、「教育」を変えるしかないのではないかと思っている。今回は詳細な議論は省略するが、問題は「平等主義」にあると私は考える。

 「平等」を重んじるがあまり「自由」が損なわれている。大阪から企業が脱出しようとするのも根本的にはここに行き着くように思う。

《平等は、実際、2つの傾向を産み出す。1つは人々を直接独立に向かわせ、一挙に無政府状態にまで押しやり、他はより長く、より目立たないが、より確実な道を通って、人々を隷従に導く。

 諸国民は第一の傾向には容易に気づき、抵抗するのもたやすい。もう1つの傾向には気づかぬうちに引きずられる》(トクヴィルアメリカのデモクラシー 第2巻(下)』(岩波文庫)松本礼二訳、pp. 212-213)

 しばしば生活保護受給世帯の多さが問題となるが、「自助」の精神を失い、「公」(おおやけ)に依存しようとする人間が多ければ、地域が衰退するのも無理はない。

 自由の側に軸足を移せば「格差」が広まるとの批判が高まるのであろう。が、大阪を牽引する人材が育たねば大阪の未来はない。

 共に貧しくなる「平等」を大阪の人々は望むのだろうか。【続】