保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

有名芸能人の相次ぐ自殺を考える(2) ~反省と憂鬱~

ヨーロッパにおいて、同じキリスト教でもカトリックが多いところよりもプロテスタントが多いところの方が自殺率が倍高いというデータから、プロテスタントが「個人主義」的であるのが原因ではないかとデュルケームは考えた。

《たとえば、プロテスタントは自分一人で聖書を読む。勝手に読んで、自分で自由に解釈するのです。しかしカトリックはそれをやってはいけない。聖書の自由検討をカトリックは許しません。だから、読めなくてもいいわけです。しかし、プロテスタントは自分で、自らの責任において解釈しなければいけない。そういうかたちで、プロテスタント個人主義的な態度が形成される。

 そういう個人は、共同体から切り離されているー今風に言うと、絆が弱くなるーわけです。プロテスタントの場合には、自分で孤独に世界と自らを見つめ直し、反省することが中心になりますから。このように集団から個人が分離しているとき、自殺が起きやすくなる》(大澤真幸社会学史』(講談社現代新書)、p. 230)

 <反省>とは自らの態度や行為などを省(かえり)みることである。人は、ただ生きるのではなく「善く生きる」ためには、自らの態度・行為などを反省することも必要である。が、人は、順風満帆の時に<反省>などしない。<反省>するのは何か問題が生じたときである。

《反省というものは、その発達が必要とされるときにだけ、つまり、それまで支障なく行為をみちびくことのできた無反省なある観念や感情がその効力を失ってしまったときに、はじめて成長してくる。このときその空隙(くうげき)を埋めるために反省が起こってくるのであるが、べつに反省がこの空隙をうがったわけではない。思考や行為が無意識な習慣のかたちをとるにつれて反省がしりぞいていくのと同様に、既成の習慣がくずれはじめると、はじめてそれに応じて反省がめざめてくる》(デュルケーム『自殺論』:『世界の名著 47』(中央公論社宮島喬訳、p. 98)

 <習慣>が崩れればそれを修復すべく<反省>を迫られる。が、たとえ自らに問題がなくても<反省>を迫られる場合もある。

《反省は、通念がもはや従来どおりの力をもたなくなったとき、すなわち、もはや同程度の通用性をもたなくなったとき、通念にたいしてその権利を主張するようになる。したがって、この権利の主張が、しばしのあいだ一時的な危機のもとにのみ行なわれるのではなく、それが常態になって、個々人の意識が常時この反省の自律的作用を確立するようになるということは、とりもなおさず、個々人の意識がさまざまな方向にさまよいつづけていて、すでに崩壊してしまった世論に代わる新しい世論がまだ形成されていないことを意味している》(同)

 問題が個人ではなく社会の側にある場合、<反省>は半ば常態的なものとなる。が、いくら<反省>すれども問題は根本的解決をみない。そのことは個人を「憂鬱」にする。

「周囲のすべてを彩る憂鬱は、自分自身の憂鬱と驚くほどにひびきあっていた。それは、私の憂鬱を魅了し、つのらせた。私は悲哀の底しれぬ深みに身を沈めた。

だが、それは生き生きと脈打ち、私の心のうちで、思想、印象、無限との交感、明暗によって満ちていた。それは、私を悲哀からのがれようとさせないほどであった。それは人を冒す病。しかし、病の感覚が苦痛であるよりもむしろひきこまれる魅力であるような、またそこでは死が無限に向かっての逸楽(いつらく)に満ちた消滅にも似ているような、そんな病なのだ。

それからというもの、私はこの悲哀にすべてをゆだね、悲哀をまぎらわすことのできる社会というもののいっさいから隠遁(いんとん)し、ここで出会う世界のなかで、沈黙、孤独、無関心をもって身をつつむことに心を決めた。自分の精神の孤独は一つの屍衣(しい)―それを通しては、私はもはや人間にまみえようとはしなかった、まみえたいと願うのはただ自然と神のみ」(ラマルティーヌ『ラファエル』:同、pp. 243-244)【続】