保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

令和3年度中学歴史教科書に見られる南京事件の扱いについて(1) ~朝日新聞はシナの橋頭保~

《24日に検定結果が公表された中学校の教科書(令和3年度から使用)で、社会科では「従軍慰安婦」の呼称が復活したほか、「南京事件」などについて自国の近現代史をことさら悪く描く記述が一部でみられた》(産経ニュース2020.3.24 14:42)

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 今では「南京大虐殺」と呼べるような虐殺があったとまで言う人は、さすがに日本ではほとんど見られなくなったと思われる。が、シナが主張するような当時20万人の南京で30万人の大虐殺があったなどと荒唐無稽なことを言わないにしても、虐殺がなかったわけではないのだからということで最近は「南京事件」という呼称が用いられている。

 が、国際法に触れるような、乃至(ないし)は、道義上許されるべきでない「虐殺」の証拠は何ら示されていない。出てきたのは偽の「写真」や疑わしい「証言」だけである。

 「写真」が捏造(ねつぞう)され続けてきた歴史が、逆に「南京事件」がなかったことを証明していると言うべきであろう。

※虐殺の証拠とされる写真が偽物であることは、東中野修道小林進・福永慎次郎『南京事件証拠写真」を検証する』(草思社)などを参照されたい。

 「証言」にしても裏付けが何もない。一証人が言いっ放しである。よって真偽のほどは清(さや)かではない。

 学び舎版には次のような証言が載せられているとのことだが、このコラムは現行版にも既に掲載されている。

南京市に住んでいた夏淑琴(当時8歳)の話

 昼近くに銃剣を持った日本兵が家に侵入してきました。逃げようとした父は撃たれ、母と乳飲み児だった妹も殺されました。祖父と祖母はピストルで、15歳と13歳だった姉は暴行されて殺されました。私と4歳の妹は、こわくて泣き叫びました。銃剣で3カ所刺されて、私は気を失いました。気がついたとき、妹は母を呼びながら泣いていました。家族が殺されてしまった家で、何日間も妹と二人で過ごしました。(一部要約)〈笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』より〉

(『ともに学ぶ 人間の歴史』(学び舎)2017年、p. 235)

 が、このような聞きっ放しで何の裏も取れていない、信憑性に欠ける「証言」を教科書に載せるのはあまりにも軽率に過ぎると言うべきであろう。にもかかわらず、検定意見が付かないのは、検定官がどういう思想の持ち主かが窺い知れるだろう。

 南京大虐殺の話が世間に広まったのは、本多勝一『中国の旅』が出版されて以降のことである。

 この如何わしい書籍は今尚堂々と出版され続けている。ということは、朝日新聞社はシナ情報戦の「橋頭保(きょうとうほ)」だということになる。【続】

李登輝氏逝去について(3) ~日本精神~

《日本は先の大戦に敗れるまで半世紀、台湾を植民地支配していた。その歴史を背景に、李氏は日本にとって特別な政治家だった。植民地時代の台湾で生まれ、京都帝大に学んだ。日本軍人として終戦を迎えた。

 流暢(りゅうちょう)な日本語で「22歳まで自分は日本人だった」などと語る言葉が、当時を肯定するかのように受け止められることもあった。だが、本人は動じることなく、ときに日本の政治家について「小手先のことばかり論じている」と厳しかった》(8月1日付朝日新聞社説)

 <当時を肯定するかのように受け止められる>のではない。当時を肯定しておられたのだ。だから戦後日本の政治家に厳しかったのである。自分を育ててくれた戦前の日本に感謝するからこそ戦後日本の卑屈さに我慢がならなかったということである。

《「民主化の父」として知られ、戦後の台湾を独裁支配した中国大陸由来の国民党政権を、6回の憲法改正などで内側から改革した。心から哀悼の意を表すとともに、満身の力を込めて自由と民主主義を守った強固な意志を次代につなぎたい》(7月31日付産經新聞主張)

《李氏が重要性を訴え続けた自由と民主主義を、次代も引き継いでもらいたい》(8月1日付北海道新聞社説)

 が、李氏が<自由>や<民主主義>に拘泥(こうでい)していたとはとても思われない。確かに李氏は大陸に抗(あらが)った。が、それは台湾の「独立自尊」を目指さんがためであった。

《台湾人は

「日本精神(リップンチェンシン)」

という言葉を好んで用います。これは日本統治時代に台湾人が学んだ、勇気、誠実、勤勉、奉公、自己犠牲、責任感、清潔といった諸々の美点を指す言葉です。日本人がこの「日本精神」を失わない限り、日本は世界のリーダーとして発展していくことが可能だと、私は信じています》(「『日本精神』を失うな——台湾民主化の父・李登輝さんが『致知』に語ったもの」:2020年07月31日付致知出版社HP)

 戦後日本人は敗戦と共に多くのものを捨て去った。その中には捨ててはならないものもあったはずだ。李氏の言う<日本精神>もその1つであろう。<自由>だの<民主主義>だのといった西欧の<理念>に気触(かぶ)れてしまった戦後日本人が反省すべきところがここにある。

《日本統治時代の大正12(1923)年に台湾で生まれ、旧制台北高から京都帝大(現京大)に進んだ李氏は、学徒出陣を経て、旧日本軍の陸軍少尉の立場で終戦を迎えている。日本人の良さも悪さも知り尽くしている人物だった》(同、産經主張)

 李氏は神ではないのだから<日本人の良さも悪さも知り尽くしている>とはやや誇張が過ぎるだろう。私なら「良い意味でも悪い意味でも日本人のことをよく知っていた」とでも言うところだろうか。【了】

李登輝氏逝去について(2) ~東京社説子が勝手に抱く「台湾の悲哀」~

《李氏を語る時、忘れてはならないのは「台湾の悲哀と誇り」を自身が強く感じ、その思いを台湾統治に結実させてきた政治家であるという視点であろう。

 李氏は90年代初め、台湾を訪れた作家の司馬遼太郎氏と対談し「台湾人に生まれた悲哀」に言及した。その悲哀とは、戦前の日本植民地時代には日本人として生まれながら、本土出身の日本人と差別され、祖国復帰後は大陸から来た外来政権が権力を握り、台湾人が抑圧されてきた歴史である》(8月1日付東京新聞社説)

 これは出鱈目(でたらめ)である。司馬氏に語ったのは

《「外来政権」に支配されてきた台湾人の「悲哀」》(8月1日付毎日新聞社説)

なのであって、<植民地>だの<差別>だのといったことを李氏は口にしていない。

李 いままでの台湾の権力を握ってきたのは、全部外来政権でした。最近私は平気でこういうことを言います。国民党にしても外来政権だよ。台湾人を治めにやってきただけの党だった。これを台湾人の国民党にしなければいけない。かつてわれわれ70代の人間は夜にろくろく寝たことがなかった。子孫をそういう目には遭わせたくない。(司馬遼太郎『台湾紀行』(朝日文芸文庫)街道をゆく40、p. 386)

 東京社説子には台湾が置かれている大変な状況が分からないのだろう。シナと台湾は「1つの中国」という立場なのであろうから分かるはずもない。独立したくても許されない。そこに<台湾の悲哀>がある。

―(編集部)台湾はやはり新しい時代に出発したということでしょうか。

李 そう、出発した。モーゼも人民もこれからが大変です。しかしとにかく出発したんだ。そう、多くの台湾の人々が犠牲になった二・二八事件を考えるとき、「出エジプト記」はひとつの結論ですね。(同、pp. 392-393)

二・二八事件:1947年2月28日の国民党による武力鎮圧事件。

《李氏は日本語に堪能で親日家として知られる。「誠実、責任感、勤勉などの日本精神を日本統治時代に学び、台湾人が自らの誇りとした」と称(たた)えたことは、日本人として率直に感謝したい》(同、東京社説)

 これは「有難い」ことではあっても<感謝>することではない。おそらく李氏を素直に評価できない心のねじれが言葉の選択を誤らせたのであろう。

《だが、東アジアの政治指導者の一人である李氏が若き日、学徒出陣で出征し、旧日本陸軍少尉として名古屋で終戦を迎えた歴史からも目を背けることはできない。

 戦前の日本が、アジア諸国を侵略し、李氏の心から終生離れることのなかった「台湾人の悲哀」の一端をつくった責任は否定できない。

 李氏自身は批判していないが、こうした負の歴史の教訓を私たちは忘れるべきではない》(同)

 どうして社説子の意見をここにねじ込まなければならないのか。おそらく李氏はこのようなことを夢にも思っておられなかったはずで、失礼千万である。【続】