保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

李登輝氏逝去について(1) ~中共と親中派の策動を可視化する探照灯~

台湾民主化の父・李登輝元総統が逝去(せいきょ)された。

 が、例によって日本の政治に不可思議な動きが見られる。

《台湾の民主化を進めた李登輝(り・とうき)元総統の死去を受け、日本政府が弔辞を送る準備を進めていることが31日、分かった。政府関係者が明らかにした。

 一方で、菅義偉(すが・よしひで)官房長官は同日午前の記者会見で「葬儀への政府関係者の派遣の予定はない」と明言した》(産経ニュース2020.7.31 11:01)

 葬儀には政府関係者を派遣しないとわざわざ<明言>するのはどうしてか。おそらく中共政権に阿(おもね)ってのことなのだろうが、このように親中派が幅を利かす日本の政治は危うい限りである。

 「産經抄」が面白い記事を書いている。

《台湾の李登輝元総統は日本にとって、「日台関係の礎を築いた」(安倍晋三首相)特別な存在だった。それとともに、中国と国内親中派の普段は目立たない策動を可視化する探照灯の役割も果たしていた。李氏が退任後、来日しようとするたびに、彼らが慌てふためき大騒ぎするのである》(8月1日付産經新聞産經抄」)

 <中国と国内親中派の…策動を可視化する探照灯>とは言い得て妙である。が、最近では普段でも目立ち過ぎて探照灯(サーチライト)を持ち出すまでもなくなっている。

《▼平成13年4月、心臓病治療目的で来日した際にもすったもんだがあった。当時の森喜朗首相が早くから李氏受け入れを決めていたにもかかわらず、外務省のチャイナスクール(中国語研修組)は日中関係悪化を恐れ来日阻止に動く。これに親中派の政治家が呼応し、巻き返しを図ったのだった。

 ▼このとき、マスコミは珍しく歩調をそろえ、李氏来日を人道的観点から認めるべきだと社説で主張した。親中派福田康夫官房長官が中国の反発を危惧し、定例記者会見で述べた捨てゼリフが忘れられない。「何かあったら皆さん方新聞のせいですからね」》(同)

 <何か>とは何か。中共様がお怒りになられるということなのか。右は米国のご機嫌を伺い、左は中共に媚(こ)びを売る。嗚呼(ああ)情けない。

《人の一身も一國も、天の道理に基て不羈(ふき)自由なるものなれば、若(も)し此一國の自由を妨げんとする者あらば世界萬國を敵とするも恐るゝに足らず、此一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず》(「學問のすゝめ 初篇」:『福澤諭吉全集』(岩波書店)第3巻、pp. 32-33)

 が、平和天国の日本に「独立不羈」の精神を求めるなどということはおそらく「お門違い」というものなのであろう。

《▼翌14年には慶応大の学生サークルが学園祭での李氏講演を計画したものの、中止になる事件が起きた。李氏は快諾していたが、外務省は査証(ビザ)発給を拒み、大学側も講演中止を促した。中国に忖度(そんたく)するあまり、「私人」の来日も許さないという過剰反応である》(同、産経抄

 「病(やまい)膏肓(こうこう)に入る」(病気が酷くなり治療の施(ほどこ)しようがない)とはこのことだ。【続】

ALS嘱託殺人について(2) ~議論の先送りは許されない~

《懸念されるのが、難病患者の死を安易に容認する考え方が広がることだ。ALS患者であるれいわ新選組の舩後(ふなご)靖彦参院議員は「『死ぬ権利』よりも『生きる権利』を守る社会にしていくことが何よりも大切だ」とのコメントを公表した》(7月26日付神戸新聞社説)

 ALS患者である舩後氏であるからこそ<死ぬ権利>の意味が分かるのだと思うのであるが違うようである。<死ぬ権利>とは<死ぬ>という行為の選択肢を<権利>として持つということである。権利を持つということと権利を行使することとは別だということを混同すべきではない。

 人間の尊厳を重んじるのであれば、人間がこの「究極的権利」を有することは欠かせない。<死ぬ権利>が奪われているために死のうにも死ねず、たとえ人間としての尊厳が踏みにじられようとも艱難辛苦(かんなんしんく)を甘受せよというのでは酷薄に過ぎやしないか。

《安易な議論は慎むべきだが、先送りしたままでいいのか。高齢化社会の進展や医療の発展に伴い、「本人や家族が納得できる最期を迎えたい」という自己決定権への意識が高まっている。欧米では安楽死を合法化する動きが広まっている》(7月26日付南日本新聞社説)

 <安楽死>を認めることには慎重の上にも慎重を重ねるべきである。そのことに異論はない。が、医療の進歩と共に、かつてのような「自然死」を迎えることが難しくなった今、神に代わって、どのような条件のもとに生と死を選択するのかについて議論を積み重ねていくこともまた必要なのではないか。

《患者の命を守り、生きる道筋を探ろうとするのが医師の本分だ。自殺願望を抱く重い難病患者と向き合ったなら、まずはどう支えるかを考えるべきである。

 容疑が事実とすれば、患者の求めが発端としても、医師としてあまりにも命を軽んじる独善的な行為と言わざるを得ない》(7月25日付信濃毎日新聞社説)

 これこそ信毎社説子の独善である。生に絶望し死を望む患者に、様々なパイプを取り付け、人工心肺を用い人為的に生かし続けるのかどうか、その判断はもはや医師の裁量範囲を越えている。

 成程、患者に向き合うのが医師の本分なのだとしても、患者の意思を無視し、無理矢理生かし続けることが本当の意味で患者の為なのかどうかまでを判断するのは医師の手に余ると言うべきではないか。

《病気や障がいを理由にした安楽死を安易に肯定することは、「人為的に失わせていい命」の存在を、さらには「津久井やまゆり園」事件で19人を殺害した植松聖死刑囚のような「障がい者は殺してもいい」という発想を生み出しかねない》(7月25日付沖縄タイムス社説)

 ただの<障碍者>つながりで<安楽死>とは無関係な事件を連動させて否定的な心象を抱かせ、<安楽死>の議論自体を封じ込めようとするのもまた生命至上主義者の独善であろう。本人が死を望む<安楽死>と、本人の意思を無視した「津久井やまゆり園」殺害事件を同等に扱うのは思考が粗雑に過ぎる。【了】

(追記1)本ブログを作成するにあたって情報を収集したのが7月26日で、この時点で大手紙社説はこの問題を取り上げていなかった。問題意識が低いのか、どう書いてよいのか様子見をしたのか分からない。朝日、毎日、読売、産經、東京各紙社説がこの問題を取り上げたのは28日になってからのことである。

(追記2)後発組で目に留まったのは以下の3点である。

《患者の生命・健康に深く関わる医師には、高い倫理と人権感覚が求められる》(朝日社説)

《患者がより良く生きることを支えるのが医師本来の務めではないか。安易に死期を早めただけなら、医療を逸脱する行為であり、許されない》(読売社説)

《高齢者や難病患者の命を軽視する持論は、相模原市知的障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件を彷彿(ほうふつ)させる》(産經主張)

ALS嘱託殺人について(1) ~「生命至上主義」と「安楽死」~

《難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者から依頼を受け、薬剤を投与し殺害した嘱託殺人容疑で、京都府警は、いずれも医師で仙台市の男(42)と東京都の男(43)を逮捕、送検した》(7月25日付沖縄タイムス社説)

 現行法上は、<安楽死>に手を貸せば殺人罪に問われる可能性が極めて高い。

《そもそも、薬物投与などで患者を積極的に死に導く安楽死は、日本の法律では認められていない。1991年の「東海大安楽死事件」では医師が患者を死なせて殺人罪で有罪になった。

 横浜地裁の判決は、医師による安楽死が許容される要件として(1)耐え難い肉体的苦痛がある(2)死期が迫っている(3)苦痛緩和の方法を尽くし、他に手段がない(4)本人の意思表示がある-の4項目を示した。

 だが、その後も4項目を満たしたとして公的に安楽死が認められたケースはない》(7月26日付南日本新聞社説)

 だから今回も嘱託殺人の容疑で逮捕されてしまったわけである。が、それでいいのだろうか。

 ここには「生命至上主義」という考えがある。したがって、「自由」や「権利」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する世の中にあってさえ、「生命」だけは「泣く子も黙る」存在なのである。

 ゆえに病気で体が動かなくなり死にたいと思っても「死ぬ自由」もなければ「死ぬ権利」もない。仮令(たとい)患者が「肉体的及び精神的苦痛」に苛(さいな)まれようとも一顧だにしない。「生命至上主義」は謂わば絶対なのである。

《ALSは進行性の難病で、寝たきりになり食事や呼吸も自力ではできなくなる。一方で感覚や思考は従来のままだ。動かない体に閉じ込められたような苦しさはいかばかりか、察するに余りある》(7月25日付高知新聞社説)

 にもかかわらず、ただ生かされ続ける。これは一種の「拷問」である。にもかかわらず、高知社説子は、

《患者には死を望むより他に道はなかったのか。生きる希望を見いだせるように支える手だてはなかったか》(同)

と叱責する。患者の判断は安易だったとでも言いたいのだろうか。

 生きることに絶望した人間に、絶望というものを知らぬ人間が、安易な言葉を投げ付ける。それ自体が人間の尊厳というものを軽んじ貶(おとし)めることになりはすまいか。本人の意思を考慮の埒外に置き、自己決定権を奪い、有無を言わさず生かされ続けること、それが博愛的、人道的ということなのだろうか。

《2人は患者の主治医ではなく、会員制交流サイト(SNS)を介して依頼を受けた。現金も受け取っていたとされるなど、医師による他の「安楽死」事件と比べても特異さは際立っている。

 難病に苦しむ患者の自己決定とはいえ、こうした経緯でそれがかなえられることには疑問を拭えない》(同)

 今回の事件の問題は、それはそれとして追及すればよい。<安楽死>の問題とは分けて考えるべきである。【続】