《今回のトリエンナーレのあり方を検証するために愛知県が設けた委員会が、おととい公表した…中間報告は、「不自由展」の作品説明や展示方法に不備があったとしつつ、民主社会における表現の自由の重要性を説き、▽展示が政治的色彩を帯びていても、公金の使用は認められる▽表現は人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがある▽ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない――と指摘。展示を中止したままでは「悪(あ)しき前例や自主規制を誘発する」と述べ、環境を整えたうえでの再開を提言した》(9月27日付朝日新聞社説)
自分の都合の良いように報告をつまみ食いするのはやめるべきだ。<公金の使用>に関して中間報告は次のように述べている。
《アートの専門家がアートの観点から決定した内容であれば、政治的な色彩があったとしても、公立美術館で、あるいは公金を使って行うことは認められる(キュレーションの自律性の尊重)》
だとすれば、論点は、当該の作品が公金を使うのに問題がない作品であるとアートの専門家が判断するか否かにあるということになる。昭和天皇の御真影を燃やし、灰を踏み付けるような作品、特攻隊員を「間抜けな日本人」と呼んで名誉を棄損するような作品を果たしてアートの専門家がアートとして認めるのか否か。
また、中間報告は次のようにも言っている。
《あいちトリエンナーレの運営体制を抜本的に見直すべきである。例えば海外の芸術祭は常設の企業や財団が運営しており、事務局長が常任で資金集めをするなど充実した体制を整備。また芸術監督が2回の大会を仕切るなど継続性、安定性を確保している。あいち トリエンナーレの場合、県庁が中心とならざるをえないが公金を使う難しさを解決する方法として例えばアーツカウンシルを設けるべきである》
が、そんな中間報告にも疑問符が付く。
《過去に禁止となった作品を手掛かりに「表現の自由」や世の中の息苦しさについて考えるという着眼は今回のあいちトリエンナーレの趣旨に沿ったものであり、妥当だったと言える》
どうして過去に展示が禁止されたのかを考えるのが先ではないのか。「表現の自由」には「公共の福祉」に反さないという条件が付されるものであり、「公共の福祉」に<息苦しさ>を感じるからといって、これに攻撃を仕掛けるような「表現の自由」が<妥当>というのには私は納得がいかない。
中間報告は
《条件が整い次第、すみやかに再開すべきである》
と言う。そして<展示方法や解説プログラムの改善・追加>として
《例えば大浦氏の映像作品は今の場所では作家の真意が理解されにくい。別途会場で上映し、作家に思いも語ってもらう機会を作る》
と言う。が、昭和天皇の御真影を燃やす「真意」とは何か。これを理解する検証委員たちも少なからず反日感情に冒されているということではないか。【続】