保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

日本固有の領土と言えなくなった北方領土(3) ~放棄した千島に択捉、国後は含まれるか~

《日本は51年9月、サンフランシスコ講和条約に署名した。そこには日本が千島列島を放棄すると書かれている》(毎日新聞 2019年2月8日 東京朝刊)

Treaty Of Peace With Japan

Article 2

(c) Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of 5 September 1905.

日本国との平和条約

第二条

(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 問題は、放棄した千島列島に北方四島が含まれるかどうかということである。条約批准の国会では、次のように政府委員が答弁している。

島津久大・政府委員  ヤルタ協定の千島の意味でございますが、いわゆる南千島、北千島を含めたものを言っておると考えるのです。ただ北海道と近接しております歯舞、色丹は島に含んでいないと考えます。(第007回国会 外務委員会 第7号 昭和25年3月8日)

 歯舞、色丹は千島に含まれないが、南千島(択捉、国後)は千島に含まれる。が、これはあくまでも国際協定でも何でもない、単なる密約「ヤルタ協定」における「千島」の話である。

 GHQ占領下において打つ手が限られる中で、吉田茂首相(当時)は最善を尽くすべく根回しを施(ほどこ)した。

《講和會議(かいぎ)が連合國側の折衝で既に定められた條約案を形式的に採擇(さいたく)する會議となる公算が多いとすれば、會議前の連合國間の折衝において、どこかの國に日本の代辨者となってわが國の利益を擁護して貰わなければならない。しかしてかゝる國は米國を措いて他にない》(吉田茂『回想十年 第三巻』(新潮社)、p. 24)

ということで、

《講和の接近に備えて、わが国の政治、経済各般に亘る實情(じつじょう)説明の資料を作成し、これを日本管理の主導者であり、従ってまた講和の主唱者、斡旋者たるべき米國政府に提出した…平和條約の内容に最も関係のある領土問題に関しては、特に力を入れた。(中略》

 説明資料は領土問題だけでも七册(さつ)の大部となった。その中で強調したことは、沖縄、小笠原は固(もと)より、樺太、千島についても、歴史、民族、地理、経済などのあらゆる面から、日本と斬るベからざる関係にある點(てん)であった。特に南千島や歯舞、色丹に関しては、これらの島々が、如何に傳統(でんとう)的な、日本固有の領土であるかについて力説した》(同、pp. 60-61)

 その甲斐もあってであろう、

《三月草案では「日本はソ連に封し南樺太及びその附屬(ふぞく)島嶼(とうしょ)を返還(return)し、千島列島を引渡す(hand over)べし」となっていた》

のが

《最終案においては、連合國全權に對して、單に“放棄する”ということに書き改められた》(以上、同、pp. 61-62)

 当初は千島列島をソ連に「引渡す」となっていたのが、単に「放棄する」と変更された。が、ソ連はおもしろくない。

《サンフランシスコの會議に臨んでみると、ソ連代表グロムイコ氏は、その演説の冒頭から「侵略主義日本」を散々非難攻撃した。それまでは憤りによしとするも、南樺太や千島列島までが日本の侵略を受けたが如き口吻を以て、「これらの領域に對しソ連が領土權を有することは議論の餘地なし」といい、條約文の修正を要求したのである》(同、p. 62)

 これに腹を立てた吉田茂首相(当時)は次の如く反駁(はんばく)した。

《條約受諾演説で…ソ連全權の演説に觸(ふ)れ、千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全權の主張には承服できぬこと、特に、日本開國の當時(とうじ)エトロフ(擇捉)クナシリ(国後)兩島が日本領土であることについては、帝政ロシアも何ら異議をさしはさまなかったものであること、さらに1875年日露兩國政府は平和的外交交渉を通じて、當時日露兩國民の混住地域であった南樺太を露領とし、同じく混住地域であったウルップ(得撫)以北の千島諸島を日本領とすることに話合いをつけたものであること、最後に、北海道の一部たる色丹島および歯舞諸島終戦當時ソ連軍に占領されたままであることなどを明白にしたのである》(同、pp. 62-63)【続】