保守論客の独り言

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日本固有の領土と言えなくなった北方領土(4) ~経緯の表層をなぞる毎日記者~

《日本は51年9月、サンフランシスコ講和条約に署名した。そこには日本が千島列島を放棄すると書かれている。政府は条約批准の国会で千島には国後、択捉が「含まれる」と答弁し、吉田内閣の見解となった。

 ところが、次の鳩山内閣になってソ連との平和条約交渉が始まると、56年2月に千島に国後、択捉は「含まれない」とする新たな政府統一見解をまとめる。東西冷戦を背景にした自民党や米国の圧力があった》(「『北方領土の日』と安倍首相 立脚点の後退が目につく」:毎日新聞2019年2月8日 東京朝刊)

 が、これはおそらく事実に反する。それは吉田首相(当時)が米国のダレス氏に次の如く打診していることからも分かる。

《平和條約の案文がほぼ確定的となった昭和26年春、米國大統領特使ダレス氏が、いわゆる“三月草案”に関する関係連合國の説得を終えて3度目に来訪したときには、南千島が案文にいうところの千島列島に含まれぬことを明記されたいと要請した。

 然(しか)るにダレス氏は、日本側の説明と希望とは十分にこれを諒(りょう)としながらも、もし條文上にその點(てん)を改めて明かにするとすれば、関係諸國の諒解を取り直さねばならず、そうなれば條約調印の時期は甚だしく遅れることになるというわけで、草案のまゝ呑んでほしいということであった。そしてその代りというわけでもないが、平和會議(かいぎ)に當(あた)って日本代表から何かその點に関する見解の表明をしたらよいではないかとの示唆を受けた。

日本側としても、幾度かいうとおり、一日も早く講和獨立(どくりつ)を願っていたので、その示唆に従うことになったわけである。私がサンフランシスコ會議の演説で、條約案受諾の意思を明かにすると同時に、特に領土處分(しょぶん)の問題について一言した裏には實(じつ)はそうした經緯があった》(吉田茂『回想十年 第三巻』(新潮社)、p. 61)

 日本が放棄した千島列島に南千島(国後、択捉)が含まれるというのが吉田内閣の見解などというのは事実に反する。国後、択捉の帰属について日本が右往左往しているかのように言うのも正しくはない。

南樺太、千島列島は、サンフランシスコ條約に関する限り、決してソ連の領有を認めてはいないのであって、従ってこれら地域の現状は、ソ連の戦時占領のまゝとなっていると解するのが、本筋だと思う。

況(いわ)んや歴然と北海道の一部である色丹、歯舞南島についてはもちろん、日本固有の領土として古くから公認されていた南千島に関しては、本来ソ連の占領部隊の撤退をこそ日本は要求すべきであって、今さら「返還」を求むべき性質のものではない。

要するに北邊(ほくへん)の領土問題は、他日機あらば國際會議によって決せらるべき筋合のものであることは、サンフランシスコ會議の經緯からいっても當然(とうぜん)なのである。この點は今後ともわが官民の念頭に置くべきことであろう》(同、pp. 63-64)【続】