保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

「記述式」導入は大学入試改悪だ(1) ~生煮えの制度と批判~

萩生田光一文科相の「身の丈」発言によって動き出した大学入試改革への批判。英語の民間試験導入は一旦見送られたが、もう一つの目玉である「記述式」にも批判が高まっている。

《中途半端な手当てですませようとせず、いったん白紙に戻して検討し直すべきではないか》(1115日付朝日新聞社説)

《このまま見切り発車するのは無謀だ。

 受験生が「実験台」にされかねない以上、現状では延期するしかなかろう》(1113日付毎日新聞社説)

文科省は一度立ち止まり、何のための記述式導入なのか、根本から問い直すべきだろう。生煮えの仕組みのまま、見切り発車することは許されない》(1113日付西日本新聞社説)

 <生煮え>なのは記述式試験の導入だけではない。これを批判する側も<生煮え>の感が強い。

《一番の心配は、受験生の自己採点と実際の採点とが大きくずれることだ。昨年の2度目の試行調査でも「不一致率」が3割に達した。自己採点が甘いと2次試験の出願先に門前払いされかねず、逆に厳しすぎると、自分の力を誤解したまま志望先を断念することも想定される》(同、朝日社説)

 一番の問題は、そもそも主観的採点を免れない、つまり、採点がぶれることが避けされない記述式試験を全国一律に課すということである。二次試験は記述式である。にもかかわらずどうして一次試験に記述式を導入しなければならないのか。

《思考力や表現力を測ることが導入の目的だ。知識偏重を見直そうとする理念自体は間違っていない》(同、毎日社説)

などというのは大学入試の仕組みが分かっていない素人考えに過ぎない。

《暗記型の知識ではなく、思考力や判断力、表現力を育てる入試改革の理念は否定しない。だが信頼を得られないままの見切り発車は乱暴だ。翻弄(ほんろう)されるのは受験生であることを忘れてはならない》(1114日付京都新聞社説)

などと訳知り顔で的外れなことを言われては迷惑である。問題は<信頼>云々ではない。大学個別二次試験が記述式であるにもかかわらず、屋上屋を架すように全国一律に記述問題を課すことがそもそも間違っているのである。

《ここにきて文部科学省も事態の深刻さを認識したのか、2次試験に進む受験生を絞り込む「2段階選抜」の判定材料に国語の記述式の成績を使わないよう、国公立大学に求めることを検討しているという》(同、朝日社説)

 ここまでくると何のために記述問題を課すのか意味不明である。分を弁えず安易に制度改革を行おうとするからこういうことになるのである。そして間違いに気付いても変なプライドがこれを許さない。【続】

「桜を見る会」中止では済ませぬ「スッポン」たち

《首相主催の「桜を見る会」について、政府が来年度の開催中止を決めた》(11月15日付朝日新聞社説)

 が、一端噛み付いたら離さないスッポンのような人たちは赦(ゆる)さない。

《安倍首相は数々の疑問に、いまだ何ひとつ、まともに答えていない。このまま幕引きとするわけにはいかない》(同)

桜を見る会の中止で幕引きは許されない。疑惑解明の始まりにすぎない》(11月15日付東京新聞社説)

《税金を使った国の行事が「私物化」されたのではないかとの疑惑が首相自身に向けられている。中止によって問題に幕は引けない》(11月15日付北海道新聞社説)

《政府は急きょ、来年の開催中止を決めた。だが、それで幕引きとはいかない。誰をどんな理由で招いたのか、首相は丁寧に説明すべきだ》(11月15日付徳島新聞社説)

 <幕引き>という言葉が流行り言葉のように使われていることからも、批判が一面的であることが窺(うかが)われる。

《第2次安倍政権発足以降、招待者が膨れあがり、特に首相の後援会関係者が大勢招かれていることに公私混同との批判が強まっていた。急な中止決定に、追及の矛先を鈍らせる狙いがあるのは明らかだ》(同、朝日社説)

 招待者が膨れ上がったことが問題なのか、公私混同が問題なのか。

《公私の区別が曖昧になっていたとすれば問題だ。節度を欠いていたとの批判は免れまい。長期政権ゆえの緩みが背景にあるのではないか。首相は自らを律し、政権運営にあたるべきだ》(11月14日付読売新聞社説)

 これまで安倍政権を支えてきた、否、指南役であった読売新聞までがこのように書くのは注目に値する。少なからず方針転換があったのだろう。

《政府はあいまいな招待基準や、不透明な招待プロセスなどを見直したうえで、再来年度の復活をめざす。1952年から続く行事であるが、各界で「功績・功労」があった人が対象という会の趣旨に立ち返り、この際、長年の慣行を見直し、今の時代にふさわしいものにしてもらいたい》(同、朝日社説)

 「やめろ!」と言うのならいざ知らず、<今の時代にふさわしいものにしてもらいたい>などと言うから分からなくなる。長年続けられてきたことであっても、これからの時代に合わないのならやめればいい。<今の時代にふさわしいもの>などと言えば、結局折り合いがつかず伸び伸びになるだけである。

《今国会でも繰り返されているのは、政権への打撃が大きいとみると批判の矢面から「火元」を覆い隠す安倍官邸の手法である。

 菅義偉官房長官が来春の開催中止を発表した桜を見る会も同様にしたいのだろうが、今回の問題には首相が直接関わる。国民の目は一層厳しく、沈静化や幕引きなどできるはずもない》(同、東京社説)

 反安倍政権の人たちだけが<国民>なのではない。親安倍政権の人たちやごく中立的な人たちも「国民」である。「国民」は反安倍の野党やマスコミの「為にする批判」、そしてばればれの偽情報に飽き飽きしてしまっているのではないか。

「桜を見る会」について

《毎春、東京・新宿御苑で行われる首相主催の「桜を見る会」出席者が、第2次安倍政権発足以降、年々増え続け、首相の後援会関係者が大勢招待されている》(1113日付朝日新聞社説)

と野党連が噛み付いた。

《税金で賄われる内閣の公的な行事を私物化している》(同)

と言うのである。

 強(あなが)ちこの指摘は間違ってはいない。「桜を見る会」はやはり私的色が強いと言わざるを得ない。そう思うからこそであろう、安倍首相は来年の開催をあっさり見送った。

 野党はこの手の卑近なことばかりを問題視する。が、卑近であるがゆえに自分たちも同様の過失を犯すことを免れない。実際、鳩山政権も「桜を見る会」を開催した。野党お得意のブーメラン炸裂である。

 が、蓮舫女史は次のように醜い言い逃れをする。

「おはようございます。

あなた達も桜の会を行っていた、とか。出席してたでしょ、とか。

つまらない反応です。

安倍総理桜を見る会の問題は総理の職責、税金を使って安倍晋三衆議院議員の政治活動にしていた疑惑に尽きます。

説明なきまま、中止で幕を閉じようとする政府の姿勢も姑息すぎます」(午前6:38 · 20191114ツイッター

 自分たちも同様の過ちを犯してしまったことをまず詫びた上で問題とするのなら分かるけれども、自分たちのことは不問に付して現政権だけを追求するのはあまりにも身勝手と言うより他はない。

 否、そんなことよりも、こんな些末なことしか野党が追及できないことの方が問題ではないか。日本の政治には議論すべきことが山ほどある。

8日の参院予算委員会共産党の田村智子氏は、第2安倍内閣以降、会の参加者と支出は伸び続け今年は参加者18,200人、支出約5,500万円と2014年から五年間でそれぞれ1.31.8倍になっていると追及した》(1113日付東京新聞社説)

 共産党がこういう役回りを演じることは目を瞑(つむ)るにしても、これに野党第1党の立憲民主党までもが乗っかることに私は首を傾(かし)げるのである。

 日本は香港の問題をこのまま見て見ぬ振りをし続けるのか。このまま韓国が反日政策を続ければ38度線ではなく対馬海峡が防衛ラインなることにどう対処しようと考えるのか。これには憲法問題も絡んでくるだろう。

 もはや頭打ちと思われる「ものづくり産業」からの構造転換をどのような道筋で行うのか。これは人材育成という観点から教育改革とも絡み合う問題である。

 少子高齢化にみあった社会保障はいかにあるべきか。これはあるべき日本という将来ビジョンが問われる問題でもある、等々。

 「桜を見る会批判」に興じている場合ではないのである。