保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

オーストリア展覧会「JAPAN UNLIMITED」の認定取り消しについて

《ウィーンで開催中の展覧会について、在オーストリア日本大使館が友好150周年事業の認定を取り消した》(11月9日付朝日新聞社説)

 そもそもどうして大使館がお墨付きを与えたのかが分からない。

 安倍晋三首相と思しき人物がインターナショナル・アセンブリーで演説する会田誠氏の動画は次のようなものである。

「We began imitating other powerful countries, we colonized those weaker nations surrounding us, and we began wars of aggression」(我々は他の列強国を真似出し、弱い近隣諸国を植民地化し、侵略戦争を始めました)

「There were a great many people whom we insulted, and we wounded – and we killed… I am sorry!!!!」(我々が侮辱し、傷付け、殺害した非常に多くの人々がいました……申し訳ございません!!!)

 他にも

《北海道共産党支部を訪問した作者がそこで共産党員と共産主義の未来、マルクスについてなどインタビューしている動画、東京電力会社の幹部が謝罪表明している動画など》(長谷川 良『在オーストリア日本国大使館が「反日芸術展」を支援?』2019年11月08日 11:30 アゴラ)

があるようだ。朝日社説子は

《より良い社会を築くために多様な表現の場を守るべき国や自治体が、それとまったく逆の動きをする》(同、朝日)

と批判する。が、今回は「JAPAN UNLIMITED」の展示物が日奥友好150周年事業に相応しくないとして認定を取り下げただけで、展覧会は継続されている。したがって、

《民主主義の発展には、不都合なことも表に出して議論を交わし、考えることが大切で、権力は無用の介入をしてはならない――。そんな近代社会の基本を理解せず、芸術への尊敬を欠く国だと宣言したに等しい》(同)

などというのは言い掛かりもいいところである。

《国内では、慰安婦を扱った作品の公開に待ったがかかった。

 少女像の写真を片隅にコラージュした作品に対し、三重県伊勢市は主催美術展での展示を不許可とした。市民の安全が脅かされる恐れがあるという。川崎市は、共催する映画祭で慰安婦問題のドキュメンタリーを上映することに懸念を示し、主催NPOはいったん中止を決めた》(同)

 やりたければ勝手にやればよい。公序良俗に反するものを公共の施設を用いたり、公的援助を当てにしてやるなということでしかない。

《気になる動きもある。

 文化庁所管の日本芸術文化振興会は、「公益性の観点から不適当」と判断した場合、活動への助成金支給を取り消すことができるよう要綱を改めた。

 関係者が罪を犯した場合を想定していると言うが、ならば要綱にそう書けばよい。公益という、いかようにも解釈できる用語には危うさがつきまとう。「あいち」に対し、文化庁が手続きの不備を理由に補助金を不交付とする異例の措置をとった直後だけに、現場に動揺と不信を広げた。撤回を求める》(同)

 つまり、<公益>などというあいまいな基準で助成金を支給するかしないかを判断するな、ということであるが、助成金など当てにせず自前でやればこその<自由>なのではないか。

《一つひとつの動きに目を光らせ、それぞれの立場で声を上げることが大切だ。沈黙やあきらめの先にあるのは、市民的自由を失った寒々しい社会だ》(同)

 「お上(かみ)」を批判するためにお上に依存する。そんなの「本当の自由」ではない。

中島岳志氏の保守論への疑問

朝日新聞のインタビューに応え、中島岳志氏は韓国への否定的言論の広がりの要因の1つを次のように述べる。

「韓国が経済成長で国力をつける一方、世界における日本の相対的地位が下がったこと。根底にはこうした変化があると思います。韓国の姿勢も『日本に言うべきことは言う』と変化していきました。隣国の韓国が自己主張を強める姿は一部の日本人にとって、自信喪失と相まって気に入らない。保守派、とくに年長の世代により表れていると思います」(朝日新聞デジタル2019年10月14日05時00分)

 根拠に基づかぬ印象論である。問題は、韓国側の反日的姿勢にあるのであって、<日本の相対的地位が下がったこと>からくるものではない。自衛隊哨戒機への火器管制レーダー照射は反日の最たるものである。

 昨年10月には1965年の日韓請求権協定を反故にするという徴用工最高裁判決があった。最終的かつ不可逆的に解決とされた日韓慰安婦合意も一方的に破棄された。

 文在寅大統領は今年の「3.1節」の記念式典に出席し、式辞の中で日本政府を批判した。

 「慰安婦問題の解決について、加害者である日本政府が『終わった』と言ってはならない」(2018年3月1日(木)12時52分 ニューズウィーク日本版ウェブ編集部)

――朝日新聞世論調査では、年長になるほど、韓国を「嫌い」と答える割合が増えていました。

 「韓国を過去に見下していたような中高年世代にそうした傾向がある程度、あることは納得できます。この世代が時の変化に追いつけていない。それが今の日本のナショナリズムの姿です」(同、朝日新聞デジタル

 どうしてこのように思うのか意味不明である。若い世代はかつて日韓併合時に、日本が持ち出しで、インフラを整備し、教育を普及し、コメの生産を高め、人口を倍加させたことを偏向教育のせいで知らないのだろう。まさに韓国の発展の礎を築いたのはこの時代であった。

 若い世代が嫌韓にならないのは、日本が韓国を植民地にし搾取したと思い込んでいるからではないか。

 中島氏は保守思想家の嚆矢(こうし)たるエドマンド・バークを引き合いに出して次のように言う。

「18世紀の英国の政治家エドマンド・バークに従えば、保守思想は、人間は不完全であり、人間の理性は間違いやすいと考えます。自分と異なる主張にも耳を傾け、『なるほど』と思える異論とも合意形成を図ろうとする。これが保守政治の矜持(きょうじ)です」

 これはまったくの誤解である。バークは異論と合意形成を図ろうなどとしていない。

 主著『フランス革命省察』の中で、バークはフランスの「人間の権利」を主張するトマス・ペインを痛烈に批判している。バークは、世襲財産としての権利は認められるけれども、「人間の権利」などというものは到底認められない旨を説得的に語ったのであった。異論と合意形成を図るのが保守政治の矜持などというのはバークの思想ではない。

「『自分たちこそ正しい。韓国はおかしなことを言い続けている』という頑(かたく)なな姿勢は、私には保守とは見えません」(同)

 日本人が頑ななのではない。韓国が北朝鮮との合邦を目指して、頑なに反日的態度をとり続けているのである。

「日韓ともに自分の思う『100%』をめざしている現状ではどうにもならない。膠着(こうちゃく)状態のときこそ解決の糸口を見いだすため、多元的なチャンネルを使う策もめぐらす。これも保守政治家の要諦(ようてい)です」(同)

 こんな<保守政治家の要諦>を勝手に作らないで欲しい。反日姿勢を改めない韓国との解決の糸口など見付かるはずがない。反日チキンレースを仕掛けてくる相手と和解することなど不可能である。

英語民間試験導入延期について(5) ~入試を変えて英語教育を変えようとするのは横暴だ~

萩生田光一文部科学相は言う。

「子どもたちに英語4技能を身につけさせることは、これからのグローバル社会に必ず必要で、入試でどのように評価していくのか、できるだけ公平でアクセスしやすい仕組みはどのようなものなのか新しい学習指導要領で初めて実施する令和6年度の大学入試に向けて、私のもとに検討会議をつくって、今後1年を目途に検討し、結論を出したい」(NHK NEWS WEB 2019111 1049分)

 <必ず必要>は重言であろうが、私は<子どもたちに英語4技能を身につけさせることは、これからのグローバル社会に必ず必要>だとは思わない。何かを得ようとすれば何かを捨てなければならない。日常的に必要とはされない英会話力よりも、生きていくのに不可欠な国語力の方が余程重要である。「大局観」がないから、このような「木を見て森を見ない」発言になってしまうのである。

「全体的に不備があることは認めざるをえない。延期して課題を検証し、どういった点を改善すれば、皆さんが限りなく平等に試験を受けられる環境を作れるかに注力したい。きょうまで取り組んでいただいた民間の試験団体とは引き続き信頼関係をもって前に進めていきたいが、仕組みを含めて抜本的に見直しを図りたい」(同)

 スピーキングテストを実施せんがために民間試験を活用するということになったのであるが、そもそも主観的評価を免れないスピーキングテスト自体を全国一律で実施することが不可能なのであるから、公平性云々を言うのなら、スピーキングテストの実施は諦めるしかない。つまり、これまで通りセンター試験を実施すべきだということである。

文科省の本来のねらいは、小中高の英語教育を実践的なものに変えることだったはずだ。だが読解中心の授業からなかなか脱却できないとみて、入試をテコにしようとした》(112日付朝日新聞社説)

 これは現場を知らぬ誤解である。教科書はコミュニケーション英語となり、アクティブラーニングということもあって、文法訳読方式の講義型の授業などとうの昔に終わっている。指導方法が変わってもいまだに話す力が付いていないというのが実態である。否、文法力がなくなってしまったのは言うまでもなく、読解力や筆記力も落ちているのは間違いない。

 文法は、英語を外国語として学ぶ日本人にとって必須である。文法的知識が共有されていればこそ、教える側も教えることができ、学ぶ側も学ぶことができる。文法を蔑(ないがし)ろにすれば効果的な英語学習は成り立たない。

《やはり順番が逆だ。

 まず話す力を含む総合力が学校で身につくよう、授業改革を徹底する。そのうえで入試を見直す。正攻法を貫くことが、格差助長などの弊害を生まず、結局は目的達成の近道になる》(同)

 授業現場を無視して入試だけ変えてもうまくいくはずがない。授業現場の混乱も顧みず、入試を変えて英語教育を変えようとするのは横暴である。【了】