保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

英語民間試験導入延期について(4) ~スピーキングテストはやめるべし~

《準備してきた受験生や保護者、高校の教員らには、振り回されたことへの怒りや戸惑いがあるだろう。だが大きな欠陥を抱えたまま強行すれば、どれほどの混乱を招いたか計り知れない。見送りの結論は妥当だ》(11月2日付朝日新聞社説)

 私はこの<妥当>という言葉に違和感を持つ。<妥当>というよりも「当然」だと言うべきではないか。こんな不公平極まりないテストを強行するのは余りにも無責任に過ぎるからである。

《受験生の住んでいる地域や家庭の経済状況によって格差が生じる懸念は依然として拭えていない。日程や会場など試験の実施計画の全体像も明らかになっていなかった。

 準備不足による混乱も懸念されていただけに、中止の決定は当然と言えるだろう》(11月2日付中國新聞社説)

 一方、今回の改革を支持する人たちは<妥当>という言葉を使いたがる。

《大学入学共通テストの英語民間検定試験について、萩生田光一文部科学相が令和2年度からの実施見送りを発表した。この判断は妥当だが、決定が遅すぎたことなどはお粗末極まりない。

 文科省は、受験生を振り回した責任を明確にするとともに、英語教育を民間試験頼みとする安易な政策全体を見直すべきだ》(11月2日付産經新聞主張)

《急転直下、批判の高まりを受けての政治的決断だが、受験生の不安や学校現場の不信をこれ以上広げないためには、結果的に妥当な判断だったと言える》(11月2日付徳島新聞社説)

 話を進めよう。

《問題は、決断が遅すぎたことにある。

 今回の構想に対する疑義の多くは、昨春、東京大学の五神真(ごのかみまこと)総長が国立大の会合で「拙速は避けるべきだ」と提起した時点で広く認識された。家庭環境や居住地がもたらす不平等や、複数の試験の成績を比較して合否判定に使う難しさなどだ。そして今夏は全国高校長協会が問題点を詳しく列挙して「不安の解消」を求め、さらには「延期」を文科省に申し入れた。

 それでも政府は耳を貸さず、予定通りの実施に固執した。根底には、改革は正しく、支持されているという独りよがりの考えがあった。柴山昌彦文科相が「サイレントマジョリティは賛成です」とツイートして反発を招いたのが象徴的だ。

 もし、後任の萩生田氏の「身の丈」発言によって社会の注目が集まらなかったら、文科省は突き進んでいただろう。実際にぎりぎりまで与党幹部らの説得に動いていた。混乱を拡大させた責任は極めて重い》(11月2日付朝日新聞社説)

 これはその通りである。

《注目すべきはきのうの会見で萩生田氏が、民間試験を使う今の枠組みを前提にせず、抜本的に見直す考えを示したことだ。新しい指導要領で学んだ受験生らが受ける24年度をめざし、1年かけて検討するという。

だが、50万人超が受ける試験に「話す力」を測る仕組みを組み込むのは至難の業だ。1年で万人が納得する解が出るとは到底思えない。取り組むべきは、共通テストの一環として話す力を試す必要が本当にあるのか、一から議論し直すことだ》(同)

 これもその通りであって、客観性、公平性が保てないスピーキングテストはやめるべきである。【続】

英語民間試験導入延期について(3) ~英語4技能幻想~

文部科学省は民間試験への理解を求めて、各地で説明会を開きましたが、教育現場からは試験を懸念する声が相次いでいました。

10月30日、岡山県で開かれた説明会には100人を超える高校教員が集まり、文部科学省の担当者が日本の高校生は英語を話す力や書く力に課題があるなど、民間試験を導入する理由を述べました》(NHK NEWS WEB 2019年11月1日 14時44分)

 成程、英語を話すことが不得意な生徒が多いのは事実であろうと思われる。が、それは文法訳読方式の授業を行っているからではない。少なくともここ20年は英語の指導はコミュニケーション重視となっている。それでも話せないのは英語を日常的に使うことがない環境の問題と、日本語と英語の言語的距離の問題がある。

 英語のスピーキング力を高めようとしても、それは時間と労力が取られる割に得るものが少ないということである。否、得たとしても観光旅行ぐらいしか使う場もない。「何のため」が抜け落ちて、ただスピーキング力を高めようとするのは愚かである。

 英語を話す力に課題があるとして、だから民間試験では問題解決にならない。ただ民間試験を行えば、生徒の英語を話す力が改善されるわけではない。ここには大きな溝がある。

 確かに、民間試験が行われるようになれば、これに対応するために高校での指導内容が変わるだろう。が、高校での指導内容が変われば生徒の英語を話す力が向上する保証はどこにもない。週4,5時間の英語の授業でスピーキングに力を入れて指導したとしてもそれだけで英語が話せるなどというのは夢物語であろう。出来ない課題を押し付けて混乱させるだけである。

 阿部公彦・東京大教授は言う。

《中高での英語の時間数は限られている。これから劇的に増えるということはありえません。そうなると、いわゆるスピーキングの時間を増やすためには、ライティングやリーディング、リスニングの時間を減らさざるをえない。つまり、4技能どころか、他の技能を犠牲にしてスピーキング中心主義を導入するというのがネオ4技能看板の正体なのです。

 せいぜい週に4~5時間の英語の授業でさらにスピーキングに特化した時間を増やし、かつ文法や訳読はするな、授業は英語でやれ、などということになったらどうでしょう。実質には1技能、いやそれ以下になるだけです。これまでかろうじて身についていたなけなしの「英語力」もついに剥がれ落ちる。文法や読解の力が落ちれば、結果的には「しゃべる能力」と彼らが呼ぶ部分も落ちていくでしょう。(『史上最悪の英語政策―ウソだらけの「4技能」看板』(ひつじ書房)、pp. 49-50)【続】

英語民間試験導入延期について(2) ~哲学なき変革は混乱を招くのみ~

立憲民主党、国民民主党共産党社民党の野党4党などは経済状況や住んでいる地域にかかわらず、公平に受験できる環境を整えるためにはさらに検討が必要だとして、導入を延期する法案を衆議院に提出しました》(NHK NEWS WEB 2019年11月1日 14時44分)

 今回の問題の本質は民間試験を公平に受験できるかどうかという皮相な話ではない。日本における英語教育をどうするのか、否、日本の教育の在り方が問われているのである。そのことに対する認識が政治家にもマスコミにもなさ過ぎる。まさに日本は、目先のことにしか関心を示さぬ軽佻浮薄な人たちの集まりと化してしまったかのようである。

 私立武蔵高校の杉山剛士校長は言う。

「いまさら延期することで生まれる混乱もあるとは思うが、教育現場では都内の進学校ですら不安や疑問が広がっていた。保護者会も質問の嵐ですでに大混乱の序章が始まっていた中で延期されたことは現場として評価したい」

「英語の技能を高めようということに異論はないが、50万人の受験生が受ける国家的なテストに民間試験を活用することにそもそも無理があった。地域格差や経済格差という根源的な課題が解決されないまま実施ありきで進んできたことが大きな問題だった」(同)

 英語の技能を高めるといっても何をどう高めるのかというより具体的な話がなければ意味がない。スピーキング力を高める必然性はどこにあるのか。よくグローバル社会に対応するためと言われるけれども、いくらグローバル社会と言っても、日本人全員が英語を喋る必要はない。大衆英語教育としては、将来英語を話すことが必要となった場合に備えて、基礎力を付けておくというのが妥当なのではないか。

 中高6年間英語を習って英語が話せないのは指導法が間違っていたからだというのは誤解である。そもそも日常的に英語を用いない日本社会において、たかだか6年間英語を習ったくらいで英語が喋れるようになるはずがないのである。勿論、やってみなければ分からないとは言える。が、これまで得てきたものを失ってまで挑戦すべきことなのか、今一度よく考える必要があるだろう。

 日本テスト学会の理事を務める東北大学大学院教育学研究科の柴山直教授は言う。

「学術的な裏付けがないまま制度設計が進められ、専門家からは初期の段階から疑問視する声が上がっていた。実施するともっと大きな混乱が起きていたと思うので、賢明な判断が下されよかったと思う」

「英語の民間試験は質の保証などの点で大学入試とは全くレベルが異なるので、延期ではなく中止し、入試とは別に実施するべきだと思う。大学入学共通テストへの記述式問題の導入についても公平性の担保の点で合理的ではなく、中止すべきだと思う」(同)【続】