保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

学問の自由と平和(2) ~学術会議は憲法23条の適用外~

日本国憲法 第23条 

 学問の自由は、これを保障する。

ー 〇 ―

最高裁判例も取り込んで、23条の保障は研究の自由にとどまらず、成果を発表する自由、大学などでの教授の自由、そして大学の自治・自律に及ぶとの見解が定着した。

 いま注目の日本学術会議問題も、こうした議論の蓄積の上で考える必要がある》(12月8日付朝日新聞社説)

 たとえ<学問の自由>が大学の自治・自律にまで解釈が拡大されてきたとしても、学術会議までもがこれに含まれるかのように言うのは言い過ぎである。大学がなければ高等教育は成り立たないが、学術会議がなくても教育上おそらく何の支障も来(きた)さない。

《研究者の考えは長年の研究活動の上に形づくられる。それが政府の意に沿わないからといって制裁の対象になれば、学問の自由は無いに等しい》(同)

 学術会議に入れるかどうかは<学問の自由>とは関係がない。関係があるというのなら、多くの非学術会議員には<学問の自由>がないことになってしまう。

 学術会議員は或る意味「名誉職」である。学術会議に加わることで得られるのは<自由>ではなく<名誉>であろう。

《他の研究者や受講する学生らの萎縮も招く。「会員にならなくても学問はできる」といった言説が、事の本質を理解しない間違ったものであるのは明らかだ》(同)

 <事の本質>とは何か。<会員にならなくても学問はできる>というのは事実である。どうしてこれが間違っているのか分からない。

 また、政府の介入を嫌うのなら、民営化すればいいだけのことである。

《軍事研究は性質上、学問の自由の根幹である自主・自律・公開と相いれない。その危うさを指摘し、科学者の社会的責任を再確認した点に(軍事研究を否定した過去の)声明の意義はある》(同)

 <軍事研究は性質上、学問の自由の根幹である自主・自律・公開と相いれない>も意味不明である。<軍事研究>と<自主・自律>が相容れないなどということがどうして言えるのか。最後の<公開>は<軍事研究>と相容れないとは思われるが、<学問の自由>とは<公開>を前提としたものではないし、学問の成果を<公開>することは決して<自由>ではない。

 そもそも軍事研究を否定する方が、むしろ<学問の自由>を制限していると言うべきである。軍事に応用可能な研究まで一切否定するというようなことにでもなれば、<学問の自由>は有って無きが如くものになってしまいかねない。

 軍事に転用するか否かは別次元の問題であるとしなければ、飛行機も飛ばせないし、車も走れない、コンピューターも動かせない。今の軍事では「情報戦」が重要ということになれば、情報も扱えなくなる。

 反権力よろしく政府を批判したい、軍事に関わらぬ組織にしたい、というのであれば、さっさと民営化すればよいだけではないか。【了】

学問の自由と平和(1) ~戦前戦争を煽り自由を抑圧したのは朝日だった~

《79年前の12月8日、日本は米英両国に宣戦布告した。戦場は中国大陸から太平洋に広がり、1945年の敗戦に至る。以後「平和国家」の理念を掲げて歩んできた道をふり返り、足元を見つめ直す日としたい》(12月8日付朝日新聞社説)

 <「平和国家」>とは何だろう。韓国に竹島を取られても力で取り返そうとはしない国ということなのか。ソ連・ロシアに北方領土を不法占拠されていても力で押し返そうとしない国ということなのか。北朝鮮に百人以上の日本人を拉致されていても力で奪還しようとしない国ということなのか。米国の思惑次第の「平和」を有難がっているのは「平和呆け」と言うしかない。

《不戦を守り続ける防塁になったひとつが、学問の自由を保障する憲法23条だ》(同)

 <不戦>と<学問の自由>を関連付けようとするのは単なる「こじつけ」である。学者が折に触れ戦争の芽を摘んできたとでも言いたいのだろうか。

 が、戦後日本が戦争に巻き込まれなかったのは<学問の自由>があったからなどという素っ頓狂な話ではなく、日米安保によって米国が睨みを利かせていたからに他ならない。

《真理を追い求める自由な営みから新しい発見や知見が生まれる。それが世の支配的な価値観と違ったり、時の政治権力にとって不都合な内容であったりしても、力で抑圧した先に社会の未来はない――。甚大な被害をもたらした戦争から、先人が学んだ教訓だった》(同)

 戦前の教訓は何かと言えば、朝日をはじめとする新聞に「戦争を煽る自由」を与えてしまったことではなかったか。むしろ新聞が戦争を煽るから結果として学問が抑圧されてしまったとさえ考えられる。

 朝日は、戦前は日本の国力を衰弱させようと不要な戦争を煽り、戦後は国威を高めさせないために自虐史観と平和を煽っている。つまり、「反日」という意味では戦前戦後一貫しているのである。

 朝日新聞記者でもあったコミンテルンのスパイ尾崎秀実(ほつみ)は次のように述べている。

《吾々のグループの目的任務は、特にゾルゲから聞いた訳ではありませぬが、私の理解するところでは広義にはコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為、日本に於ける革命情勢の進展と、之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報、並に之に関する正確なる意見をモスコーに諜報することにあり、狭義には世界共産主義革命遂行上当面最も重要にして其の支柱たるソ聯を日本帝国主義より防衛する為、日本の国内情勢殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し、且つ意見を申送ってソ聯防衛の資料たらしめるに在るのであります。

従って此の目的の為には凡ゆる国家の秘密等をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出すことは最も重要な任務であり、軍事上経済上の秘密の探知も亦之に劣らず重要な任務として課せられて居たものであります》(『現代史資料2 ゾルゲ事件(二)』:五 検事尋問調書(第22回):(みすず書房)、p. 216)​【続】​

大飯原発許可取り消しについて(3) ~問題解決には核技術の向上が必要だ~

《福島の例を引くまでもなく、地震津波、火山噴火など、想定を上回る規模の災害が襲ってくる恐れは常にある。だからこそ、万が一にも事故があってはならない原発については、安全側に立って基準を定め、それに基づいて審査や規制に当たらなければならない》(12月5日付朝日新聞社説)

 いかにも尤(もっと)もらしく聞こえるが、言いたいことが2つある。1つは、福島第1原発事故は「想定内」と呼べるところも少なくなかったということである。津波被害の虞(おそれ)は国会でも事前に指摘されていた。それをもみ消したというのが本当のところではないか。東電の対応の不作為も、例えば、テレビドキュメンタリー番組『NHKスペシャル 原発メルトダウン 危機の88時間』を観ても酷いと言うしかない。

 そもそも米国から輸入された原子炉「MARK‐Ⅰ型」はポンコツの烙印を押された不良品であった。また、安全対策も日本に必要な津波対策仕様ではなく米国の竜巻対策仕様だった。そのため是が非でも守らねばならない非常用発電機が地下に置かれていたため水没し作動しなかったという問題もある。

 こういった問題が国会で公に討議され、それを踏まえて規制委が設置されるという手順を踏んでいるのなら、一定の信頼を置くこともまた可能なのであろうが、それがないのなら、信用することなど出来るわけがない。

 さらに、民主党菅直人政権の初期対応の過失を私は疑ってもいる。当初原子炉を廃炉にすべく米軍が冷却劑を提供する申し出があったのを菅首相(当時)は廃炉にするのがもったいないとして断ったという新聞報道があった。勿論、実際冷却劑が使え、メルトダウンを防げたのかどうかは今となっては知る由もないのだけれども、このあたりの経緯も秘匿されてしまっている疑いが濃厚である。

 原発の稼働はこのような疑惑にしっかり答えた上でなされるべきだというのが私の主張である。

 もう1つは、<安全側>というのが那辺(なへん)にあるのかは政治的判断というしかなく、安全に、安全にと言って「ゼロリスク」を求めるのは現実的ではないということである。「ゼロリスク」を求めれば、飛行機も飛べないし、車も走れない。コロナ禍下では、外出もできなくなる。リスクを事前に回避しようとするのは当然のことではあるけれども、回避し過ぎれば「角を矯(た)めて牛を殺す」ことになりかねないのである。

《国はエネルギー政策の長期的指針である「エネルギー基本計画」で原発を重要なベースロード電源と位置付け、安全を確認できた原発を再稼働させていく方針だ》(12月4日付日本経済新聞社説)

 ただ電力欲しさに原発を稼働するのだとすれば賛成できない。原発稼働は核技術の高度化という大きな使命があることを忘れてはならないのである。

 廃炉や核廃棄物処理といった原子力が抱えた課題は、核技術の向上によってしか解決できない。また、日本が世界最先端の核技術を持つことが、安全保障上非常に重要でもある。別稿を期したいと思う。【了】