保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

大津いじめ自殺判決について(2) ~自殺の原因はいじめであると断定する無理~

《元同級生側は、生徒の口の上にハチの死骸を乗せるなどの行為は「遊びの延長で、いじめとの認識はない。自殺の原因は別にある」と主張して裁判を続行、判決を迎えた。(中略)

 この日の判決は「元同級生二人の連日の暴行から、生徒は死にたいと望むようになった。他の原因はない」といじめの存在や自殺との因果関係を認めた》(220東京新聞社説)

 私は、<自殺の原因は別にある>と主張をする被告側にも、<他の原因はない>と断定する裁判官側にも与(くみ)しない。真実はおそらくその間にある。

 いじめが自殺の全原因ではないにしても、一因であることは疑いようもない。いじめた側が<自殺の原因は別にある>などと幼稚な言い逃れをするのは醜い限りであるが、一方で<他の原因はない>と言い切るのも滅茶苦茶(めちゃくちゃ)である。

 社会科学的に言えば、「ある」とは言えても「ない」とは言えない。「ある」を証明するには1つの事例があれば事足りるが、「ない」を証明することは不可能である。

《通常、いじめと自殺との関連については、どのくらいの程度なのかや、要因が複合的に重なる点などがあり、認められにくい。

 だが今回の裁判では、第三者委員会の報告書や、2人が保護観察処分となった家庭裁判所の事件記録など膨大な証拠が提出された。そうした事実を積み上げて、いじめが引き起こす重大性を認定した今回の司法判断には大きな意義がある》(220毎日新聞社説)

 <大きな意義>どころか「大きな疑念」がある。いじめが大きな問題であるのだとしても自殺の原因のすべてであるとまで断じるのはあまりにも無理がある。

《判決は「暴行の積み重ねで、元同級生から逃れられないという心理状態に陥り自殺することは、一般に予見可能といえる」との判断を示した》(同)

 が、いじめによって自殺することが<一般に予見可能といえる>根拠は何か。家族も学校も対応が不十分だったのは、やはり予見することは不可能と言わずとも困難だからではないのか。客観的根拠もないのに裁判官の主観で<一般に予見可能>などと言うのは果たして認められることなのか。

 小室直樹氏は言う。

《原告(またはその代理人)の主張も、被告(同上)の主張も、仮説にすぎない。裁判官は、これを所定の方法(手続)によって検証(判断)する。その結果、ある主張をしりぞけ、他の主張はしりぞけない。故に、『裁判に勝った』からとて、当該人の主張がしりぞけられなかったというだけのことで、“真実”が発見されたという意味ではない。まして、『正義が勝った』などという意味ではない。

裁判官が、『必ず真実を明らかにして正義を勝たしてみせる』なんて思いあがった瞬間、近代裁判は姿を消し、それは『遠山の金さん』の裁判になってしまう。

 近代デモクラシー諸国における裁判にとって重要なのは、手続(裁判のやり方)であって結論(判決)ではない》(山本七平『派閥』(南想社)、p. 49【続】

大津いじめ自殺判決について(1) ~過てる処方箋~

大津市立中の男子生徒が11年に自殺した事件で、大津地裁はいじめが原因と認め、加害側の元同級生2人に計3700万円の賠償を命じた。市はすでに責任を認め、亡くなった生徒の両親と和解している》(2月22日付朝日新聞社説)

 が、私が疑問に思うのは、一人の生徒を自殺に追い込むまでのいじめが繰り返される場にどうして家庭は通わせ続けたのか、また学校もどうして受け入れ続けたのかということである。

《「人が集まればいじめは起きる」という前提に立った方がいい。「根絶」を唱えるのではなく、いじめ被害が深刻な悲劇にまで発展しないように「被害を隠されない仕組み」や「いじめからの逃避を認める社会」づくりへの知恵を絞りたい》(2月20日東京新聞社説)

 いじめが繰り返されるのなら、学校に行かなくてもよい、あるいは転校するといった選択肢を普通に持つことが重要だと思う。が、このことを指摘しているのは東京社説だけである。逆に、

《いじめで人を死に追いやったり傷つけたりすれば、子どもでも厳しく責任を問われうる。社会にそのことを認識させる判決だ》(同、朝日)

《常軌を逸したいじめを繰り返し、被害者が自殺に至れば、加害者は中学生でも賠償責任を問われうる。いじめが絶えないなかで、判決を警鐘と受け止めねばなるまい》(2月22日付読売新聞社説)

といった加害生徒の厳罰化は、「いじめ自殺」抑止にどれだけ効果があるのか甚(はなは)だ疑問である。

《教職員らの情報共有を徹底し、学校が組織として対処する。自殺や長期の不登校などの「重大事態」が起きたら、すみやかに調査に着手し、事実関係を解明する――。どちらも大津の事件の教訓そのものだ》(同、朝日)

 先ほどの東京社説ではないが、人が集まれば軋轢(あつれき)が生じるのは仕方がない。いじめの芽を摘もうとすれば、何人教職員がいても足りないということになりかねないし、おそらく授業どころではなくなってしまうであろう。

 教師は学習指導の専門家ではあっても「いじめ」を調査し事実関係を解明する専門家ではない。謂(い)わば素人にこのような圧を掛けても意味がない。本気で事実関係を解明しようとするなら、それなりの専門家を派遣することが必要である。

《深刻なのは、防止法の内容が依然、周知徹底されていないことだ。条文は、重大事態の際はいじめの「疑い」の段階で調査を始めるよう明記している。なのに「確証がないから」と動かず、保護者らに不信感をもたれるケースが相次ぐ》(同)

 このように生徒へ「疑いの眼差し」を向けよと煽ってどうなるのか。このような教師と生徒の信頼関係で「教育指導」は成り立つのであろうか。「お前らならやりかねない」といじめ行為の尻尾を捕まえようと血眼(ちまなこ)になっている教師と、生徒は距離を置きたがるに違いない。【続】

大阪ダブル選について(2) ~唯我独尊の大阪維新の会~

大阪都構想が実現すれば、全てとは言わなくとも粗方(あらかた)の問題が解決するかのような、そんな「うまい話」があるはずがないと考えるのが常識人である。勿論、大阪維新の会が言うように上手く行くかもしれないし行かないかもしれない。正直なところ、やってみなければ分からない。が、そんな「博打(ばくち)」に安易にのるわけにはいかないと考えるのもまた常識人というものであろう。

《首長選は単一の課題を争点とする住民投票と違い、福祉や経済など幅広いテーマを議論する場である。たとえ両氏が当選しても、有権者が都構想について白紙委任したことにはならないだろう》(3月9日付北海道新聞社説)

 私も同意見である。さらに、私が言い続けていることは、行政の仕組みだけを変えても、中に住んでいる人間そのものが変わらなければ大阪が再生することは有り得ないだろうということである。側(がわ)だけの議論からはそろそろ卒業すべきである。

《都構想は、橋下徹氏が大阪市長だった15年の住民投票で否決されたが、松井、吉村両氏の当選を経て維新は再び動き出した。2度目の住民投票に諮るなら、効果とコストを十分に検証し、説得力のある理由を示すことが不可欠だろう》(3月9日付朝日新聞社説)

 否決されてから、何が変わったというのか。環境に何ら変化もなく再度有権者の賛否を問うというのは、有権者の判断は移ろいやすいから、今度は都構想賛成が反対を上回るかもしれないということを期待してのことであろう。が、反(そ)りの合わぬ議会を袖にして、根無し草のような有権者の判断だけを頼りに、都構想なる大改革に突き進もうとするのはあまりにも無茶無謀である。

大阪府と市の連携で、府立大と市立大の法人統合や研究所の統合など、二重行政の解消は進んでいる。都構想への理解を深めたいのであれば、こうした地道な取り組みを続けるべきではないか》(3月9日付読売新聞社説)

 正論である。が、大阪維新にとっては、それがジレンマでもある。府知事と市長が共に大阪維新の会の人間であれば、「府市合わせ」によって「不幸せ」にはならない。したがって、「二重行政」をなくそうと、大阪市を廃止して大阪都を創る必要もない。つまり、府知事と市長が頑張れば頑張るほど大阪都構想は遠退(とおの)いてしまうという構造にある。

《維新側には、2025年大阪・関西万博の誘致決定を追い風にダブル選を統一地方選にぶつけ、議会での議席増を狙う思惑があるのかもしれない。そうだとすれば党利党略でしかない。あるいは、選挙をちらつかせて公明の妥協を引き出す狙いが維新にあったのかもしれないが、これでは住民軽視といわれても仕方あるまい》(3月9日付産經新聞主張)

 こう言われても仕方のないような辞任劇ではあった。

《構想の制度設計を行う法定協議会は、やじと怒号が飛び交う場と化した…法定協におけるののしり合いはあっても、都構想がなぜ必要かといった議論はほとんど聞こえてこなかった。これでは有権者の関心も高まりようがない。そんな状態で痴話げんかのような選挙に巻き込まれるのなら、いい迷惑である》(同)【了】