保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

御代替わりと新元号(2) ~皇室問題を政治的に扱うこと勿れ~

勿論、伊藤博文公の歴史観が絶対だと言いたいのではない。所功氏は旧皇室典範10条の来歴を次のように書いている。

《旧典範の第10条(終身在位)が決まるまでの議諭を振り返りますと、その草案作成に尽力した井上毅は、明治18年ころの「謹具意見」で、女帝には反対しておりますが、「天皇違予」(心身不能)ならば、摂政を置くより「穏かに譲位あらせ玉ふ」方がよいと述べています。

 また、同203月、柳原前光らか立案し井上も加わって修正しました「皇室典範再縞」の第13条に、

 天皇は終身大位に当る。但し、精神又は身体の重患あるときは、元老院に諮詢し、皇位継承の順序に依り、その位を譲ることを得。

という草案を作り、東京高輪にあった伊藤の別邸における検討会議に提出しています。ところが、伊藤は譲位を否定しようとして、「天皇は……ひとたび践祚し玉ひたる以上は、随意にその位を遜(のが)れ玉ふ理なし。そもそも継承の義務は法律の定める所に由る。精神又は身体に不治の重患あるも、なほその位より去らしめず、摂政を置て百政を摂行するにあらずや。昔時、譲位の例……これ浮屠氏(仏教僧侶)の流弊より来由するものなり。」と反撃しています。

 それに対して、井上は「ブルンチェリー氏の説に依れば、至尊(天皇)と雖も人類なれば、その欲せざる時は何時にてもその位より去るを得べしと云へり」と原案を残そうと努力しました。プルンチェリーはドイツの著名な政治学者であり、名著『国法汎諭』が加藤弘之から明治天皇に進講されていましたから、井上もこれを援引すれば、伊藤を説得できると考えたのでありましょう。

 しかしながら、伊藤は聴き入れず、「本条、不用に付き削除すべし」と断じています。その結果、前掲の第10条が出来あがり、天皇の終身在位が確定したのです》(所功『象徴天皇「高齢譲位」の真相』(ベスト新書)、pp. 176-178

 皇室典範にもこのように政治的色合いが濃いところがある。だから皇室典範に則れば必ずしも伝統的というわけでもないということには注意が要るだろう。が、だからといって今ある皇室典範を無視してよいわけではない。

 問題は、伊藤公が天皇の終身在位を主張し、必要があれば摂政を置けばよいとしたことも、今回安倍政権が摂政を置く必要はなく、譲位を認めるとしたことも、天皇はいかなる存在か、そしていかにあるべきか、ということを巡る議論が熟さぬまま強引に押し切られてしまったことにある。

 そもそも今回の譲位は、今上陛下が譲位を希望されたことに発し、これを受けて後付けで俄(にわ)かに「特例法」を制定し実施されるという意味でも、議論を煮詰めるにはあまりにも時間がなさ過ぎた。

 皇室問題は政治色を薄める意味でも、平素から時間を掛け「静謐(せいひつ)なる議論」を積み重ねるべきであろうと思われる。【続】

御代替わりと新元号(1) ~政治色の濃い「譲位」~

天皇陛下が、皇太子殿下へ皇位を譲られる歴史的な年を迎えた。立憲君主である天皇の譲位は、日本の国と国民にとっての重要事である》(1月3日付産經新聞主張)

 <立憲君主である天皇>。産經までもがこの程度の認識なのかと私は遣る瀬無さを感じた。

 この場合、「立憲君主」とは「絶対君主」の対義語で、憲法によって制限された君主を意味する。が、天皇には「権威」はあれども「権力」はない。憲法で「権力」は制限できても「権威」は制限できない。

 憲法によって天皇を縛ろうとするのは天皇とはどのような存在なのかを理解していないからである。日本国憲法の草案を書いた占領軍が天皇の存在が理解できないのは仕方ないとしても、日本の保守系新聞がこのような認識であることに私は愕然(がくぜん)としてしまう。

 誤解なきように付け足せば、私は日本が「立憲君主国」でないと言っているのではない。「天皇を戴く立憲主義国」というのであれば問題はない。が、これを「憲法によって制限された君主国」と考えるのは間違いであろうということである。

《譲位は江戸時代後期の文化14(1817)年に、第119代の光格天皇仁孝天皇へ譲られて以来、202年ぶりとなる》(同)

 天皇の存在は本来伝統に基づくものであるが、現行憲法では

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

とされている。であれば、今回の「譲位」はまさに「合憲」ということになるのであろう。

 が、日本国憲法は戦前を否定すべく制定されたものである。だからこそ余計に今回の「譲位」は伝統に背くもののように感じられてしまうのである。

 伊藤博文公は『皇室典範』作成するにあたって「譲位」を否定している。

《再び恭て按ずるに、神武天皇より欽明天皇に至る迄三十四世曾て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは、蓋し、女帝仮摂より来る者なり。(継体天皇安閑天皇に譲位したまいしは同日に崩御あり。末だ譲位の始となすべからず)聖武天皇、皇光天皇に至って遂に定例を為せり。此を世変の一とする。其の後、権臣の強迫に因り両統互立を例とするの事あるに至る。而して、南北朝の乱、亦此に源因せり。本条は践祚を以て先帝崩御の後に即ち行われる者と定めたるは上代の恒典に因り、中古以来譲位の慣例を改める者なり》(樞密院議長伊藤伯著『帝國憲法 皇室典範 義解』(國家學會刊行版):呉PASS復刻選書4、pp. 107-108

神武天皇から欽明天皇まで34代譲位はなかった。譲位の例は皇極天皇から始まるが、女帝のため一時的に大政を摂ったことからくるものであった。(継体天皇安閑天皇に譲位されたが同日に崩御され、譲位の始まりとなるものではない)聖武天皇、皇光天皇に至って定例化した。これは世の乱れの1つである。その後、権力をもった臣下の強迫によって例えば両統迭立(りょうとうてつりつ)のようなことが起るまでとなってしまった。南北朝の争乱もここに原因がある。この条文で践祚(せんそ)を先帝崩御(ほうぎょ)の後すぐに行われるものとしたのは、上代の一定不変の規則により、中世以来の譲位の慣例を改めるものである)【続】

伊勢神宮集団参拝: 違憲批判を物ともせぬ立憲民主党

1月4日、立憲民主党は幹部が揃って伊勢神宮を参拝し、これを公式ツイッターに投稿した。

 

 

本日4日、枝野代表は福山幹事長らと伊勢神宮 f:id:ikeuchild:20190117004303p:plain を参詣し、一年の無事と平安を祈願しました。

f:id:ikeuchild:20190117004338j:plain

 

 

これには批判のコメントが多々寄せられた。

「この写真を見ると、靖国への合同参拝を思い出していい気分ではないです。ショックです。そのうち日の丸を党大会会場や党の記者会見場に掲げるようになるのかな。保守派の取り込みに必死なのは分かりますが、自分は今年の選挙、立憲に投票するかどうか非常に悩ましくなってきました」

「見たところ、議員バッジをつけておられるようですから、議員=公務員として参拝されたのですね。 公金を使う公務員の立場で、参拝という私的な行為を行なったのだから、自民党議員らの靖国参拝と同じく、単純に、政教分離違反=憲法違反ですが」

政教分離の原則に抵触する可能性のある本件をSNSで党として宣伝された、ということの重大性を理解していらっしゃいますか。今日あったことを、その意味するところ、支持者からの反響等を吟味、議論もせず無批判に広報活動しているのであれば、脇が甘いと思います」

自民党公式アカでも、議員達の靖國参拝の発信はしない。個々の発信はあるが「個人として参拝」と自民議員たちは語る。宗教と政治(団体)の分離原則を知っているからです。 なのに立憲民主党議員が集団で伊勢神宮に参詣し、しかもそれを党公式発表するとは。その振る舞いに驚嘆する」

 さて、私は政治家が正月に伊勢神宮に参拝すること自体が問題だとは思っていない。参拝という日本の風習習慣が憲法に反するというなら、憲法の方が間違っているのである。

 問題は、日頃あれほど立憲主義をうるさく言っている党が、憲法第20条の「政教分離」条項に抵触するかのようなことを堂々と行い、さらには、昨年の西日本豪雨の際、自民党議員が飲み会の写真をツイッターに投稿したことを問題視し、追及してきた人達が、立憲主義を蔑(ないがし)ろにするような写真をツイートする「無神経さ」である。

 同党の逢坂誠二衆院議員は、昨年1月22日に「安倍総理伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問主意書」を提出している。

1 歴代の総理大臣が年頭にあたり宗教施設である伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えているのか。政府の見解如何。

2 本発言が発信されることで、伊勢神宮への参拝者が増加し、特定の宗教施設の活動を援助、助長、促進するものではないのか。政府の見解如何。

3 本発言をLINEで発信することは、「昭和46(行ツ)69 行政処分取消等」(最高裁判所大法廷判決 昭和52年7月13日)でいうところの、「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に該当し、日本国憲法第20条に反するのではないか。政府の見解如何。

4 静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を事前に、首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながり、不適切ではないか。政府の見解如何。

 一体このちぐはぐさは何なのだろうか。立憲民主党の言う「立憲主義」とは単なる「ご都合主義」なのか。

 同党の阿部知子衆院議員はの自身のツイッターに次のようにツイートしている。

「一昨年の希望の党の排除方針以降、今も続く野党解体の危機の中で、立憲民主党こそ頑張らねばならない時に、枝野代表を始めとする執行部を先頭にした伊勢神宮参拝はとても残念です。多く指摘されるように個人的な参拝や宗教心を否定するものではなく、打ち揃ってとなると祈りとは違う意味が生まれます」(1月5日付)

 非常に真っ当な感覚のように思うけれども、党内で収拾を図るのではなく、このように党の醜態を公に晒(さら)すことに批判もあるようで、他人事ながら野党も大変なことだとご心配申し上げるところである。