保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

若者には無限の可能性があるのか?

《「君たちには無限の可能性がある」-。成人の日である。新成人に日本中でこの言葉がかけられているかもしれない▼門出を祝う日に水を差すつもりは毛頭ないが、脚本家の山田太一さんはこの「無限の可能性がある」が苦手だそうだ。「大人が若者を無責任に励ましているようで本当にいやな言葉だと思います」とまでおっしゃる》(1月4日付東京新聞「筆洗」)

 私がひねくれものだからであろう、<無限の可能性>という言葉の意味を一般の人とは違えているようだ。

 若者には<無限の可能性>がある。その通りだ。が、私はこの言葉を正と負、両方の意味で捉えている。つまり、若者は大いに成功することもあれば失敗することもある。それが本当の意味の無限の可能性だと思う。

 どうして一般の人々が<無限の可能性>を良い意味でだけで捉えているのかが分からない。「君たちには無限の可能性がある」と言われれば、それはそうだとしか言い様がない。へそ曲がりの私なら、別に励まされているとは思わない。

 山田氏は<リアリティーがない>と仰(おっしゃ)る。

《人生はままならぬ。だれもが無限の可能性を生かして成功を収められるわけではない。能力も同じでもない。運もある。その言葉は失敗した人に向かって無限の可能性があったのに「その分の努力が足りなかった」と言うのと同じではないか》(同)

 一般に、失敗したとしても、<努力が足りなかった>せいだけではないだろう。努力すれば必ず成功するというのならそうだろうが、成功とはただ努力のみで成しえるものではない。

《世上の成功者は、皆自己の意志や、智慮や、勤勉や、仁徳の力によつて自己の好結果を收め得たことを信じて居り、そして失敗者は皆自己の罪では無いが、運命の然らしめたが爲に失敗の苦境に陷つたことを歎じて居るといふ事實である。即ち成功者は自己の力として運命を解釋し、失敗者は運命の力として自己を解釋して居るのである。

此の兩個の相反對して居る見解は、其の何(ど)の一方が正しくて、何の一方が正しからざるかは知らぬが、互に自ら欺いて居る見解で無いには相違無い。成功者には自己の力が大に見え、失敗者には運命の力が大に見えるに相違無い。

是の如き事實は、抑何を語つて居るので有らうか。蓋し此の兩樣の見解は、皆いづれも其の一半は眞なのであつて、兩樣の見解を併合する時は、全部の眞となるのでは無からうか。即ち運命といふものも存在して居つて、そして人間を幸不幸にして居るに相違無いが、個人の力といふものも存在して居つて、そして又人間を幸不幸にして居るに相違無いといふことに歸着するのである。たゞ其の間に於て成功者は運命の側を忘れ、失敗者は個人の力の側を忘れ、各一方に偏した觀察をなして居るのである》(幸田露伴『努力論』(岩波文庫)、pp. 25-26)

 そもそも何をもって「成功」と呼ぶのか、それを問わなければ成功したかどうかの判断がつかないが、そんな哲学的な話は措(お)いておこう。

 「成功と失敗は紙一重」なのであって、「最後まで諦(あきら)めなかったか、途中で諦めてしまったかの違いでしかない」というのが本当のところではないかと私は思うのであるが…

寝屋川中1男女殺害裁判について(2) ~日本は法治国家と言えるのか~

《「近代裁判とは検事を裁く裁判である」…つまり、裁判官は被告人を裁くのではない。検事が不法な捜査や取り調べをしていないか、そのことを徹底的に調べあげるのが裁判の主たる目的であって、事実を明らかにすることが裁判の目的ではない》(小室直樹『痛快! 憲法学』(集英社インターナショナル)、pp. 247-248)

 週刊誌には、被告には前科が8犯あったという話も報じられている。状況的には被告が手を掛けたとしか考えられない。こんな極悪人は「天誅(てんちゅう)」を下さねばならないと皆が思うことだろう。

 が、裁かれるのは被告ではなく検察官である。どれだけ被告が真っ黒であろうとも検察が死刑に値する証拠を揃えられなければ死刑を言い渡すことは出来ない。それが近代における「裁判」なのである。

最高裁は過去の判例で、死刑を選択する際に考慮すべき要件として、犯行の残虐性や被害者数などを示している。計画性も重要な要件だが、今回の判決は、それを認めないまま、死刑を適用した。

 判決は、若い2人の命を被告が次々と奪ったとして、「生命軽視の度合いは著しい。類をみない」と断罪した。裁判員市民感覚が反映されたのではないか》(2018年12月21日付読売新聞社説)

 が、これは危険である。玄人の世界では死刑を言い渡せない案件を、素人の力を借りて、否、利用して死刑を言い渡した疑いすらある。

 控訴審でどのような判断がなされるのか注目されるところであるが、被害者関係者の怨恨を鎮(しず)め、世間を納得させるために1審では一旦「極刑」を言い渡しておいて、2審でこれを翻(ひるがえ)し、過去の判例に準じ「無期懲役」などに言い換えるのではないかと私は疑っている。つまりは「裁判員制度」を司法が恣意的に利用し「悪用」しているのではないかということである。

 ユダヤ教のラビの口伝を集成した

《『ミシュナ』の「サンへドリン編」(裁判編)にすでに次の規定がある。「死刑にも相当する事件の場合(刑法)は、無罪判決の理由をもって開始するが、有罪判決の理由をもって開始しない」いわば「あいつを有罪にしてやろう」という意図の下に裁判を開始することはできないのである。

ところが日本ではそうではない。その基準は一に「納得」であるという。「あいつが不問に付されるなどということは納得できない」で裁判がはじまる》(山本七平『派閥』(南想社)、p. 41)

 法を適用するかどうかは世間が「納得」するかどうかによるというのである。世間が「納得」しているのなら、法に触れていても黙過し、世間が「納得」しなければ、該当する法がなくても適当な法をあてがってでも罰する。だから日本は「納得治国家」だと言うのである。

《果たして日本は「西欧民主主義に基づく法治国家」か否か、というより「その法治国家という概念を日本的民主主義」なるものが果たして受容し得るものなのか否か》(同、p. 33)【了】

寝屋川中1男女殺害裁判について(1) ~「推定有罪」になってはいないか~

大阪府寝屋川市の中学1年の男女を殺害したとして、殺人罪に問われた山田浩二被告に、大阪地裁が死刑を言い渡した》(2018年12月21日付読売新聞社説)

 気になるのは、今回の判決が「推定有罪」となっていないかということである。

《被告は殺害を否認し、目撃証言などの直接証拠もなかった》(同)

のであれば、「疑わしきは被告人の利益に」という観点からすれば、少なくとも死刑にはならなかったのではないかと思われるのである。

殺人罪を認定するか。死刑を選択すべきか。裁判員は状況証拠から判断を迫られた。結審後の1か月間、評議が重ねられた。熟議の末の判決だったことを物語る》(同)

 が、いくら議論を積み重ねたとしても、証拠がないものを憶測だけで有罪には出来ないし、してはならない。

《権力の犠牲になって、無実の人が牢獄に送りこまれることだけは、何としてでも避けなければならない。権力の横暴を絶対に許してはならない。

 みなさんもご承知の「疑わしきは罰せず」という原則も、ここから誕生したのです。

つまり、検察側が勝利を収めるためには、犯罪を完壁に立証しなければならない。そこに少しでも疑問の余地があってはいけないし、ましてやデュー・プロセスの原則を踏み外してもいけない。検察側はパーフェクト・ゲームが求められているわけです。

 もちろんその結果…犯罪者が無罪になることがあるかもしれない。しかし、その害より権力の害のほうが文句なく大きいと考えるのが、近代法の精神であり、デモクラシーの精神なのです。1人の犯罪者ができる悪事より、国家が行なう悪事のほうがずっとスケールも大きいのです》(小室直樹『痛快! 憲法学』(集英社インターナショナル)、p. 28)

 小室氏は発想の転換を迫る。

《刑事裁判とは被告を裁くためのものではありません。ましてや「犯罪者を裁くためのもの」など、とんでもない。(中略)

 そもそも、刑事裁判においては、被告は有罪が確定するまでは無罪と見なされるというのが近代デモクラシー裁判の鉄則です。          

 たとえ、どれだけ物的証拠があろうと、心証が真っ黒であろうとも、その人は無実であるとして扱わねばなりません。

 判決が確定するまでは、どこにも犯罪者は存在しないわけですから、「犯罪者を裁く」という表現は本来、ありえないことになります。

 では、いったい刑事裁判は誰を裁くためのものか。

 それは検察官であり、行政権力を裁くためのもの。 裁判で裁かれるのは、被告ではありません。行政権力の代理人(アトーニー)たる検察官なのです》(同、p. 22)【続】