保守論客の独り言

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寝屋川中1男女殺害裁判について(2) ~日本は法治国家と言えるのか~

《「近代裁判とは検事を裁く裁判である」…つまり、裁判官は被告人を裁くのではない。検事が不法な捜査や取り調べをしていないか、そのことを徹底的に調べあげるのが裁判の主たる目的であって、事実を明らかにすることが裁判の目的ではない》(小室直樹『痛快! 憲法学』(集英社インターナショナル)、pp. 247-248)

 週刊誌には、被告には前科が8犯あったという話も報じられている。状況的には被告が手を掛けたとしか考えられない。こんな極悪人は「天誅(てんちゅう)」を下さねばならないと皆が思うことだろう。

 が、裁かれるのは被告ではなく検察官である。どれだけ被告が真っ黒であろうとも検察が死刑に値する証拠を揃えられなければ死刑を言い渡すことは出来ない。それが近代における「裁判」なのである。

最高裁は過去の判例で、死刑を選択する際に考慮すべき要件として、犯行の残虐性や被害者数などを示している。計画性も重要な要件だが、今回の判決は、それを認めないまま、死刑を適用した。

 判決は、若い2人の命を被告が次々と奪ったとして、「生命軽視の度合いは著しい。類をみない」と断罪した。裁判員市民感覚が反映されたのではないか》(2018年12月21日付読売新聞社説)

 が、これは危険である。玄人の世界では死刑を言い渡せない案件を、素人の力を借りて、否、利用して死刑を言い渡した疑いすらある。

 控訴審でどのような判断がなされるのか注目されるところであるが、被害者関係者の怨恨を鎮(しず)め、世間を納得させるために1審では一旦「極刑」を言い渡しておいて、2審でこれを翻(ひるがえ)し、過去の判例に準じ「無期懲役」などに言い換えるのではないかと私は疑っている。つまりは「裁判員制度」を司法が恣意的に利用し「悪用」しているのではないかということである。

 ユダヤ教のラビの口伝を集成した

《『ミシュナ』の「サンへドリン編」(裁判編)にすでに次の規定がある。「死刑にも相当する事件の場合(刑法)は、無罪判決の理由をもって開始するが、有罪判決の理由をもって開始しない」いわば「あいつを有罪にしてやろう」という意図の下に裁判を開始することはできないのである。

ところが日本ではそうではない。その基準は一に「納得」であるという。「あいつが不問に付されるなどということは納得できない」で裁判がはじまる》(山本七平『派閥』(南想社)、p. 41)

 法を適用するかどうかは世間が「納得」するかどうかによるというのである。世間が「納得」しているのなら、法に触れていても黙過し、世間が「納得」しなければ、該当する法がなくても適当な法をあてがってでも罰する。だから日本は「納得治国家」だと言うのである。

《果たして日本は「西欧民主主義に基づく法治国家」か否か、というより「その法治国家という概念を日本的民主主義」なるものが果たして受容し得るものなのか否か》(同、p. 33)【了】