保守論客の独り言

社会の様々な問題に保守の視点で斬り込みます

文大統領の徴用工発言について(3) ~韓国国民はこれで良いのか~

《国内の司法判断を理由に、国家間の取り決めに基づく義務を逃れることは許されない。韓国の文在寅大統領は、対日外交を安定化させる責任を放棄しているのではないか。

 元徴用工への賠償を新日鉄住金に命じた韓国最高裁の判決について、文氏が記者会見で「韓国政府は三権分立により、判決を尊重しなければならない」と述べた。

 日本の指導者はこの点を理解すべきだ、との見解を示し、「政治争点化するのは賢明ではない」と批判した。「日韓が知恵を集めて解決すべきだ」と主張するだけで具体策は出さなかった。人ごとのような態度は納得できない》(111日付読売新聞社説)

 徴用工の補償を韓国政府が持つことにすれば、韓国国内から非難の声が上がり、ただでさえ低迷する支持率がさらに下がる可能性が高い。一方で、最高裁判決に基づいて日本企業の資産差し押さえに踏み切れば、経済問題をはじめとする日本との関係悪化は避けられない。まさに、「進むも地獄、退くも地獄」である。

《経済界の対応は現時点で冷静だ。だが現場では不安感も強まっているという。新日鉄住金はもともと韓国の鉄鋼産業の草創期に技術支援した企業だ。韓国で類似の判決が続けば日本企業が萎縮し、事業からの撤退や投資減少につながる展開も否定できない》(111日付日本経済新聞社説)

 日本との関係が悪化しても韓国経済は問題ないという認識なのであろうか。そうなら文大統領は相当な経済音痴と言わざるを得ない。韓国の製造業は日本の部品の供給が絶たれれば成り立たない。

《対立が泥沼化すれば、日米韓の連携を崩したい北朝鮮を利することになりかねない》(111日付京都新聞社説)

 文大統領はこのことが分かった上で日本に対して強く出ているのであろうか。日本を侮り、韓国の国力を買いかぶっているのか、それとも南北統一という夢にのめり込み、周りが見えなくなってしまっているのか、はたまた北朝鮮に操り人形のごとく良いように利用されているだけなのか。

《東アジアの安全保障上、ともに米国の同盟国である日韓の結束の重要性は変わらず、良好な2国間関係はその前提となる。

 文氏は同じ演説で、北朝鮮への経済協力再開に強い意欲を示した。制裁緩和がなければ願いはかなわない。対北融和への前のめりの裏返しとして、対日強硬があるのだとすれば、極めて危うい。米韓同盟の危機がささやかれるのも同じ文脈にある》(111日付産經新聞主張)

 火器管制レーダー照射問題も含めて、このような状況では日韓の連携がうまくゆくはずがない。南北統一するのだから、日米韓の連携など必要ないと高を括っているかのようにも思われるが、日米の後ろ盾なく統一しようとすれば、北朝鮮に好き勝手されるだけである。

 文大統領はそれでいいのかもしれない。が、韓国国民はそれで良いのだろうか。【了】

文大統領の徴用工発言について(2) ~文大統領の読み違い?~

《今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろ其伍を脫して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡名を免かる可らず。我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり》(「脱亞論」:『福澤諭吉全集 第10巻』(岩波書店)、p. 240

(現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はなく、むしろその仲間から離脱し、西洋の文明国と行動をともにし、支那・朝鮮への接し方も、隣国だからということで特別扱いせず、まさに西洋人が接するように対処するだけである。悪友と親しくする者は悪評をまぬかれない。私は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである)

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 このようなことが続くのなら「国交断絶」という選択もあり得るとしなければならない。駐韓大使の召還といった強い意思表明を具体的に行動で示すことも否定すべきではない。

《1965年の日韓基本条約とこれに伴う請求権協定を両国関係の基盤ととらえていないのだろうか。

 韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領が新年記者会見をした。徴用工問題については「日本の政治家らが政治争点化するのは賢明ではない」と批判した。

 そもそも日本の植民地支配に起因した問題であり、日本政府には謙虚さが必要だという。そのうえで、日本企業に賠償を命じた韓国最高裁の判決はあくまで司法判断であり、韓国政府は尊重すべき立場にあるとの認識を示した。

 三権分立の原則に従うべきだと主張したいのだろう。しかし、植民地時代の歴史問題であると強調するなら、これを清算して前進したはずの65年体制をどう考えているのか。問題解決に正面から向き合っていないと言わざるを得ない》(111日付毎日新聞社説)

 韓国の三権分立は韓国内の話でしかない。日本にも韓国の司法判断を尊重せよと言うのはお門違いも甚だしい。

 そもそも三権分立は「抑制と均衡」の上に成り立つものであって、司法判断を尊重するかのように見せて、実際はこれを外交に利用しようとするのでは、かのモンテスキューもあの世でさぞお嘆きのことだろう。

《いままず求められているのは、この問題に関する韓国政府の明確な態度を示すことである。日韓は、1965年の基本条約や請求権協定を礎石として、信頼と協力を深めてきた歴史を忘れてはならない。

 徴用工問題をめぐって韓国政府は盧武鉉ノムヒョン)政権以来、協定当時の経済協力金に事実上の補償が含まれるとする見解をとってきた。それとは異なる大法院の判断に、どう向き合うのか》(111日付朝日新聞社説)

 おそらく文大統領に読み違えがあったのだろう。強く押せば、これまでのように、日本が折れるものと思っていたのではないか。また、朝日新聞のような韓国に友好的な日本の新聞もある程度は韓国の後押しをしてくれると踏んでいたのではないか。その当てが外れてしまった。だから二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなってしまったのだと思われる。【続】

文大統領の徴用工発言について(1) ~まさに福澤諭吉が言い当てたこと~

《斯る國人に對して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に從来の國交際上にも屡ば實験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無效のものと覺悟して、事實上に自ら實を収むるの外なきのみ》(福澤諭吉明治30年10月7日付「時事新報』:『福澤諭吉全集 第16巻』(岩波書店)、p. 133)

(こういった国の人達に対していかなる約束を結んでも、信義に背き約束を違えることは彼らの性分であり、まったく気にするところがない。すでに従来の外交でもしばしば実際に体験されたことであるから、朝鮮人相手の約束ならば最初から無効のものと覚悟して、実際のところ自ら実を取る以外にない)

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《韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領がきのうの年頭記者会見で、元徴用工に対する賠償を新日鉄住金に命じた韓国最高裁判決を尊重する考えを表明した。

 その上で「日本の政治指導者が政治的な争点とし、問題を拡散させているのは賢明でない」「日本政府はもう少し謙虚な立場を持たねばならない」と注文をつけた。

 判決を巡り日本側は1965年の日韓請求権協定に基づく政府間協議を要請している。文氏の発言は、日本企業の資産差し押さえを回避すべきだと迫る日本政府に不快感をにじませ、日本の求めを事実上拒否したといえる》(111日付京都新聞社説)

 こんな無責任な指導者が隣国にいることの悲劇を私は残念に思う。が、この構図は明治以来変わらぬものであり、今更腹を立てても詮無き事である。

 福澤諭吉は言った。

《我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古来亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國民に異ならずと雖ども、其人種の由来を殊にするか、但しは同樣の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國相對し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、

此二國の者共は一身に就き又一國に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風舊慣に戀々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學枚の教旨は仁義禮智と科し、一より十に至もまで外見の虛飾のみを事として、其實際に於ては眞埋原則の知見なきのみか、道徳さへ地を沸ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し》(「脱亞論」:『福澤諭吉全集 第10巻』(岩波書店)、p. 239

(わが日本の国土はアジアの東の端にあるけれども、国民の精神は既にアジアの旧弊を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここで不幸なのは隣国があり、1つを支那といい、1つを朝鮮という。この2国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのだけれども、人種の由来が違うのか、もしかすると同様の政治・宗教・風俗の中にいながらも受け継いだ教育に同じでないところがあるためか、日支韓の3国を比較すれば、支那と韓国が互いに似通っている様は支那・韓国と日本よりも近く、

この2国の者たちは、自分の身の上についても、自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らず、交通が便利な世の中で文明の物事を見聞きしないわけはないが、耳や目の見聞は心を動かすまでには至らず、古い習慣や仕来りを断ち切れぬ姿は、百千年の昔と異ならず、この文明が日に新たなる活劇の場に、教育を論ずれば儒教主義と言い、学校で教えるべきは仁義礼智と言い、一から十まで外見の虚飾だけを大事にして、実際においては真理や原則を知らないだけでなく、道徳さえもすっかりなくなって残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念のない者のようである)【続】