保守論客の独り言

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寝屋川中1男女殺害裁判について(1) ~「推定有罪」になってはいないか~

大阪府寝屋川市の中学1年の男女を殺害したとして、殺人罪に問われた山田浩二被告に、大阪地裁が死刑を言い渡した》(2018年12月21日付読売新聞社説)

 気になるのは、今回の判決が「推定有罪」となっていないかということである。

《被告は殺害を否認し、目撃証言などの直接証拠もなかった》(同)

のであれば、「疑わしきは被告人の利益に」という観点からすれば、少なくとも死刑にはならなかったのではないかと思われるのである。

殺人罪を認定するか。死刑を選択すべきか。裁判員は状況証拠から判断を迫られた。結審後の1か月間、評議が重ねられた。熟議の末の判決だったことを物語る》(同)

 が、いくら議論を積み重ねたとしても、証拠がないものを憶測だけで有罪には出来ないし、してはならない。

《権力の犠牲になって、無実の人が牢獄に送りこまれることだけは、何としてでも避けなければならない。権力の横暴を絶対に許してはならない。

 みなさんもご承知の「疑わしきは罰せず」という原則も、ここから誕生したのです。

つまり、検察側が勝利を収めるためには、犯罪を完壁に立証しなければならない。そこに少しでも疑問の余地があってはいけないし、ましてやデュー・プロセスの原則を踏み外してもいけない。検察側はパーフェクト・ゲームが求められているわけです。

 もちろんその結果…犯罪者が無罪になることがあるかもしれない。しかし、その害より権力の害のほうが文句なく大きいと考えるのが、近代法の精神であり、デモクラシーの精神なのです。1人の犯罪者ができる悪事より、国家が行なう悪事のほうがずっとスケールも大きいのです》(小室直樹『痛快! 憲法学』(集英社インターナショナル)、p. 28)

 小室氏は発想の転換を迫る。

《刑事裁判とは被告を裁くためのものではありません。ましてや「犯罪者を裁くためのもの」など、とんでもない。(中略)

 そもそも、刑事裁判においては、被告は有罪が確定するまでは無罪と見なされるというのが近代デモクラシー裁判の鉄則です。          

 たとえ、どれだけ物的証拠があろうと、心証が真っ黒であろうとも、その人は無実であるとして扱わねばなりません。

 判決が確定するまでは、どこにも犯罪者は存在しないわけですから、「犯罪者を裁く」という表現は本来、ありえないことになります。

 では、いったい刑事裁判は誰を裁くためのものか。

 それは検察官であり、行政権力を裁くためのもの。 裁判で裁かれるのは、被告ではありません。行政権力の代理人(アトーニー)たる検察官なのです》(同、p. 22)【続】